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夢うつつ (7)殷と商人

 前回に続き、加藤徹著「貝と羊の中国人」からの抜粋である。第一章「貝の文化 羊の文化」の「八百万の神と至高の神」項に、こんな記述がある(*部分は筆者による加筆)。

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 現代日本人の祖型は、先住民だった縄文人と、渡来系の弥生人が混血してできた。これは、古代人の人骨や現代日本人の遺伝子を調査してわかった科学的事実である。この事実をもとに、一九九〇年代には「縄文顔」とか「弥生顔」という語が流行した。
 『古事記』と『日本書紀』が伝えるところによると、天皇家の祖先はもともと南九州に住んでいたが、神武(じんむ)天皇のとき東に進み、近畿地方の先住民の首長・長髄彦(ながすねひこ)を征服した。神武天皇は稲作民の首長だったが、長髄彦はその名のとおり縄文系の首長だったらしい。実際、各地の遺跡から出土した縄文人の骨を調査した結果、彼らの脛(すね)が相対的に長かったっことも、今日ではわかっている。
 神武天皇が実在したか否かはさておき、神武東征伝説には、弥生系と縄文系の出会い、という太古の記憶が反映されている可能性がある。
 一説によると「日本」という国号の起源は、神武天皇と長髄彦の軍勢が最初に衝突した地名「クサカ」にちなむという(今日の東大阪市日下町)。漢字では「孔舎衙」「草香」「日下」など、いろいろと書く。昔の和歌では、「日下(ひのもと)のクサカ」と、「日下」を「クサカ」の枕詞(まくらことば)として使った。そのため「日下」と書いて「クサカ」と訓(よ)むようになった。この「日下(ひのもと)」を「日本(ひのもと)」と書いたのが日本(にほん)という国号の起源になった、という説もある。
 話を中国人にもどすと、彼らの祖先もまた、大昔に、東西の異質の種族の衝突から生まれた。三千年前の東方系の殷と、西方系の周の気質の違いは、現代中国人にも受け継がれている。
 ここで仮に、殷人(いんひと)的な気質を「貝の文化(*→【前項】)」、周人(しゅうひと)的な気質を「羊の文化」と呼ぶことにしよう。
 殷人の本拠地は、豊かな東方の地だった。彼らは、目に見える財貨を重んじた。まだ金属貨幣が存在しなかった当時、貨幣として使われていたのは、遠い海から運ばれてきた「子安貝(*→【前項】)だった。有形の物財に関わる漢字、寶(宝の旧字体)、財、費、貢、貨、貪、販、貴、貸、貰、貯、貿、買、資、賃、賜、質、賠、賦、賭、贅、贖……などに「貝」が含まれるのは、殷人の気質の名残である。
 殷の宗教は多神教で、神々は人間的だった。日本の俗諺(ぞくげん)で「御神酒(おみき)がいらぬ神は無(な)し」と言う。殷の「八百万(やおよろず)の神々」も、酒やごちそうなど、物質的な供(そな)え物を好んだ。
 殷人は、自分たちの王朝を「商」と呼んだ。三千年前、殷王朝が周によって滅ぼされると、殷人は土地を奪われて亡国の民となり、いわば古代中国版ユダヤ人となった。
 「商人(しょうひと)」と自称していた殷人は、各地に散ったあとも連絡を取り合い、物財をやりとりすることを、あらたな生業(なりわい)とした。これが「商人(しょうにん)」「商業」の語源である(*→【市をめぐる誇大妄想(28)日本語】・【中世の商業・金融ネットワーク(2)悪党】・【商業ギルド(3)宮人・神人・勧進僧・悪党・海賊】・【商業ギルド(10)大陸間貿易】)。欧州のユダヤ人が学芸でも成功したように、殷人の子孫も学者を輩出した。紀元前六世紀の孔子も、前四世紀の荘子(そうし)も、殷人の子孫であった。
 いっぽう周人の祖先は、中国西北部の遊牧民族と縁が深く、血も気質も、遊牧民族的なところがあった。殷人が貝と縁が深かったように、周人は羊と縁が深かった。周の武王を助け、殷周革命の立役者となった周の太公望(たいこうぼう)呂尚(ろしょう)の姓は「姜(きょう)」である。字形も字音も「羊」と通ずる。周人にとって、羊こそが宝であった。
 一般に、農耕民族は、地面から雑草や樹木や虫など生命がどんどん湧いてくる自然環境に住んでいるため、地域密着型の多神教になりやすい。いっぽう、広漠たる大草原や沙漠地帯に移動しながら暮らす遊牧民族は、空から大きな力が降ってくる、という普遍的な一神教をもちやすい。
 遊牧民族の血をひく周人は(*→【鶴見寺尾図幻影(1)大都】・【鶴見寺尾図幻影(2)人は風土によってつくられる】)、唯一至高の神である「天」を信じた。天は、イデオロギー的な神であり、物質的な捧げものより、善や義や儀など無形の善行を好む。殷人は、神々を好んで図像に描いたが、周人は、ユダヤ教徒やイスラム教徒(*→【鶴見寺尾図幻影(1)大都】)が唯一神を図像に描かぬのと同様、「天」の姿を絵や彫像にすることはなかった。
 『旧約聖書』によれば、唯一神は、アベルが供えた羊は嘉納(かのう)したが、その兄カインが供えた農作物は嘉納しなかった(「創世記」第四章)。周人も、「天」を祀(まつ)る儀礼に置いては、羊を犠牲にして供えた。殷の神々は、酒や肉のごちそうで機嫌をとり、「買収」することができた。しかし周人の「天」は、羊を捧げるだけでは不十分だった。善行や儀礼など、無形の「よいこと」をともなわねば、「天」は嘉納してくれなかった。義、美、善、祥、養、儀、犠、議、羨……など、無形の「よいこと」にかかわる漢字に「羊」が含まれるのは、イデオロギー的な至高の神「天」をまつった周人の気質の名残である。

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 日本列島に暮らす縄文人たちは「舟のミチ」を通じて、今から5000年ほど前(→師岡貝塚・大口台遺跡【貝塚】・【鶴見寺尾図の用水路(14)縄文から鎌倉まで】)に古いインド文化に接触し(→【市をめぐる誇大妄想(28)日本語】・【市をめぐる誇大妄想(4)交易語】)、さらに3000年ほど前に古代中国で滅びた殷王朝(→【市をめぐる誇大妄想(27)東アジアの交易語】)伝来の「商業」や「祭祀」を受容した、ということもあるかもしれない。
 縄文時代は後期・晩期(→【「三ツ沢貝塚」と縄文の大規模集落】)になると、環状列石・配石遺構・組石遺構・石棒などの呪術的・祭祀的要素の濃い特殊な遺構が顕著となるが、これは中国大陸から流れ着いた「商人(しょうひと)」の文化に接触したことによる、と考えてみるのはどうだろう。


*参考文献:加藤徹著「貝と羊の中国人」(新潮新書・2006年6月20日発行)
# by jmpostjp | 2011-04-10 18:24 | Trackback | Comments(0)

夢うつつ (6)流浪の民

 加藤徹著「貝と羊の中国人」の第一章「貝の文化 羊の文化」の「二種類の祖先」項に、こんな記述がある(*部分は筆者による加筆)。

 人は、父と母の出会いから生まれる。民族の誕生も同じである。世界の文明国の歴史をさかのぼると、大昔に二つの異質な集団がぶつかりあったのが起源、という例が多い。
 インド人の祖型は、三千五百年前に先住民のドラヴィダ人と、征服者のアーリア人が衝突して形成された(*→【市をめぐる誇大妄想(3)メソポタミア文明】)。日本人の祖型は、二千数百年前に、在来系の縄文人(じょうもんじん)と渡来系の弥生(やよい)人が混淆(こんこう)して誕生した。イギリス人の祖型は、千五百年前に、外来のアングロ・サクソン人が、在来のケルト人を征服することで生まれた。
 中国人(漢民族)の祖型は、いまから三千年前、「殷(いん)」と「周(しゅう)」という二つの民族集団(エスニック・グループ)がぶつかりあってできた。ちなみに、現在、中国で多数派を占める民族を、「漢民族」と呼ぶ(中国語では「漢族(ハンズー)」)。「漢民族」という名称と概念は近代に入って生まれたものだが、これにあたる人々は昔からいた(近代以前は「漢」「漢人」などと言った)。漢民族とは、中国語(中国人は「漢語(ハンユー)」と呼ぶ)を母語とし、漢民族の文化や価値観をもつ人々の集団である。異民族でも、漢民族の伝統文化を受け入れて同化すれば、漢民族と見なされた。
 司馬遷(しばせん)の「史記」など、漢文の古典にのせる伝説によれば、殷(*→【市をめぐる誇大妄想(27)東アジアの交易語】・【中国・黄河と長江の古代文化】・【市をめぐる誇大妄想(1)先史時代】・【測量マニア(1)陰陽道の方技】・【鶴見寺尾図の用水路(8)雨乞い神事と相撲節会】・【鶴見寺尾図の用水路(9)三ツ池公園】)の最後の王・紂王(ちゅうおう)は、とんでもない暴君だった。彼は「酒池肉林」の贅沢をして国を傾け、自分を諌(いさ)めた大臣を残酷な方法で処刑した。周の武王は、天下の諸侯をあつめて紂王と戦ってこれを倒し、周王朝を打ち立てた。これを「殷周革命(殷周易姓・えきせい・革命)」という。
 殷は長いあいだ伝説の王朝であった。しかし十九世紀末に甲骨文字が発見され、一九二八年から殷王朝の都市の遺跡(殷墟・いんきょ・河南省安陽)が発掘されたことで、殷は歴史上実在したことが確認された。
 三千年ぶりに土のなかから出てきた遺物が語る「殷周革命」の真実は、古い伝説とは大違いであった。実在した殷は、東方系の農耕民族で、当時としては高度な文明を誇っていた。最後の王・帝辛(ていしん・伝説のいわゆる紂王)は暴君ではなく、祭祀(さいし)を熱心にとり行った敬虔(けいけん)な人物だった。当時はまだ金属貨幣は存在せず、交易の貨幣として子安貝(こやすがい*→【貝塚】・【「蕃神台貝塚(ばんしんだいかいづか)」】)が使われた。殷は、子安貝を求めて、東の沿海部の人方(じんぽう)と呼ばれる民族を攻略した。その背後を西方系の遊牧民族(*→【鶴見寺尾図幻影(1)大都】・【『本堺』水路の掘削と犯土のタブー】)の血を引く周につかれ、滅亡した。征服者である周人(しゅうひと)は、自分たちに都合のよい勧善懲悪(かんぜんちょうあく)的な伝説を創り、後世に伝えた。
 遺跡から見えてきた真実の歴史は、右のようなものである。
 殷周革命の年代については、紀元前一〇二七年説をはじめ諸説があり、いまだ定説はない。
 近年の歴史研究の進歩により、今から三千年前の殷周革命が、日本人の誕生にも大きな影響を与えたこともわかってきた。二〇〇三年、日本の国立歴史民族博物館(千葉県佐倉市*→【番外:「洛中洛外図屏風・飛鳥井邸」】)は、北九州市の弥生時代の遺物の年代を、放射性炭素年代測定法をつかって調査した。その結果、弥生時代の開始が従来の定説より五百年もさかのぼり、北九州では紀元前十世紀にすでに稲作が行われていたことが判明した。
 殷周革命の激動によって、東アジアの諸民族が玉突きのように動き、それが北九州へ水稲稲作をもたらす契機(けいき)となった、ということらしい。
 現在でも中国大陸の動きは、黄砂(こうさ)、大気汚染、景気動向、反日デモなど、日本列島にインパクトを与えつづけている。そうした宿命の歴史は、三千年前までさかのぼる。反中とか親中とかいう前に、まず、中国についてよく知ることが必要であろう。

 ところで、鶴見寺尾図の『大堀口』に重なる地域に(→【鶴見寺尾図のミチを辿って】)、現在「横浜市神奈川区子安」という地名があり、この周辺では戦前に、「風早台貝塚」や「蕃神台貝塚(「子安池谷貝塚」に名称を変更。)」と呼ばれる縄文時代の貝塚が発掘調査されている。
 どのようないわれによって、この地を「子安」と呼ぶのかは知らないが、はるか遠い昔に、中国大陸から流れ着いた殷人の末裔が、「子安貝」を使って交易する際の拠点として集住したからではないか、などと想像してみるのも面白い(→【夢うつつ(3)錬金術師たち】)。
 ひょっとすると、世界各地に見られる貝塚は、戦乱や天災などで故郷の大地を追われた人々(→【寺と地図(2) 海を渡る人々】)の末裔が専業の商業民となり(→【市をめぐる誇大妄想(28)日本語】・【鶴見寺尾図の用水路(15)塩田】)、各地の交通の要衝に余剰物資を流通・交換させるために設営した交易場(→【市の立つ場所】・【番外:会寧(フェリョン)の馬市】)の名残である、という見方もできるかもしれない(→【「蕃神台貝塚(ばんしんだいかいづか)」】)。


*横浜市神奈川区子安→(【重要文化財「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」】・【宋の測量技術・記里鼓(キリコ)と東海道】・
 【妙蓮寺~舟と馬のターミナル駅】・【住吉神倚像】・【あさい海 ふかい海、つめたい水 あたたかい水】・
 【松見八幡公園に見る海城都市の幻影】・【鶴見寺尾図の用水路(13)「浦島丘」・「白幡」の地名の由来】・
 【『ミチC』(2)「篠原橋人道橋」・「庚申塔」】・【鶴見寺尾図幻影(4)2つの正面と3つの出入口】・
 【商業ギルド(8)天災と都市整備】・【丘陵に囲まれた盆地のような地形】)

*参考文献:加藤徹著「貝と羊の中国人」(新潮新書・2006年6月20日発行)
# by jmpostjp | 2011-03-22 17:43 | Trackback | Comments(0)

夢うつつ (5)薪伐る鎌倉山の木垂る木の

 白河静氏の著書「中国古代の民族」の「第4章 詩経民俗学」に、こんな記述がある。

恋愛詩の成立
 恋愛詩の成立、わが国でいえば相聞(そうもん)歌の成立が、一般に歌垣歌などの集団の場において見られることは、注意すべき問題をもつようである。歌が古人の内面的なう心情の表現として、ひそやかかに特定の人にのみ伝達されるというありかたは、共同体的なものがなお強くその生活習慣のなかに残されていた時代においては、ほとんど考えがたいことである。その意味で、『万葉』における相聞歌の成立と展開についても、いわゆる叙景歌の成立の問題と、相通ずる問題をもつものといえよう。
 詩経の恋愛詩には、采薪(さいしん)の俗を歌うものが多い。そしてその采薪の俗は、わが国のそれと、民族的にはなはだ似たところがあるように思われる。柴(しば)がわが国の神事や民族儀礼において、どのように重要なものであるかは、例えば『改定綜合日本民族語彙』に収める関係語彙によっても知ることができよう。
 たとえばシバウチは、狩猟者が山中に宿るとき、その使用地を柴でうちはらって、山神からその地を借用することであり、また病気の治療祈祷に、巫女が環坐して柴をうちふることがある。シバオリガミは、峠の路傍の小祠にこの神を祀り、そこを通るものは柴をたむける習わしであった。シバキリは斎忌のしるしに柴を挿し立て、また神領の境に斎柴(いみしば)を立てることである。シバ節供は年木(としき)切りの式、シバダテは斎場作りに榊(さかき)を立てることで、神幸のお旅所(たびしょ)などに用いる。祭日に神官社人など柴舞祭をすることもあり、正月の祝の火を焚く薪をシバムカエという。
 これらの民族語彙に今も残されている習俗は、おそらく遠い古代からうけつがれてきているものであろう。たとえば『万葉』の
  白浪(しらなみ)の濱松が枝(え)の手向(たむ)け草幾代(いくよ)までにか年の經(へ)ぬらむ  巻一、三四
  磐代(いはしろ)の濱松が枝(え)を引き結び結びまさきくあらばまたかへりみむ  巻二、一四一
  靑柳(あをやぎ)の上(ほ)つ枝(え)攀(よ)ぢ執(と)り蘰(かづら)くは君が屋戸(やど)にし千年(ちとせ)壽(ほ)くとぞ  
                                                                   巻一九、四二八九
  庭中(にはなか)の阿須波(あすは)の神に木柴(こしば)さし吾(われ)は齋(いは)はむ歸り來(く)までに  巻二〇、四三五〇
などはみな神事的な背景をもつものであるが、その相聞的にくずれた形のものとしては、さきにあげた「玉葛(たまかづら)寶ならぬ樹には」「神樹にも手はふるとふを」などのほか
  み幣帛(ぬさ)取り 神の祝(はふり)が鎭齋(いは)ふ杉原
  燎木伐(たきぎき)り ほとほとしくに 手斧(ておの)取らえぬ  巻七、一四〇三
のような俗謡的な旋頭歌(せどうか)もある。
 詩篇における伐薪の発想も、もとは神事に関するものであろう。大雅の「旱麓(かんろく)」はさきにも引いたように祭事詩の饗宴を歌うものであるが、その第五・六章に
  瑟(しつ)たる(茂りあう)彼の柞棫(さくよく*くぬぎとなら)は 民の燎(や)くところ
  豈弟(がいてい)の君子は 神の勞(らう)するところ
  莫々(ばくばく)たる葛藟(かつるゐ)は 條枚(じょうばい*幹や枝)に施(いた)る
  豈弟の君子は 福を求めて囘(たが)はず
と歌う。柞棫は火祭りのたいまつに用いる。また莫々と生い茂ったつたかずらが木にまとうのは、周南の「樛木(きゅうぼく)」にもみえる祝頌の発想である。采薪のことは大雅の「棫樸(よくぼく)」にもみえ、
  芃々(ほうほう)たる(*さかんに茂る)棫樸(*ならとなつめの木)は これを薪(しん)にしてこれを槱(や)く
  濟々(せいせい)たる(儀容の立派な)辟王(へきわう*君主) 左右これに趣(おもむ)く  第一章
とあって、これも神事をいう。「棫樸」と「早麓」とは前後に並んで編次されているものであるが、「棫樸」には「倬(たく)たる(光かがやく)彼の雲漢(うんかん*天の川)は 章(しゃう*美しい形)を天に爲す」、また「早麓」にも「鳶(とび)飛んで天に戻(いた)り 魚、淵(ふち)に踊る」のような、かなり象徴的な詩句があって、知識社会的な貴族興隆期の詩篇と考えられるものである。
 「柞棫」・「棫樸」の采薪の興は、「豈弟の君子」や濟々(せいせい)たる辟王」を導いて、これを祝頌する興であるが、その柞薪が不幸の発想とされているような例もある。小雅の「車舝(しゃかつ)」は、詩意不明の一篇とされているのであるが、その詩はかなり特殊な状況を歌うものであるらしい。
  閒關(かんくわん)として車の舝(くさび)うつ 孌(れん)たる(*若く美しい)季女(きぢょ*末娘)の逝(ゆ)くことを思ふ
  飢(う)うるに匪(あら)ず渇(かつ)するに匪(あら)ず 徳音(とくおん)、ここに括(あ)へるなり
  好友(かういう)無しと雖も ここに燕(えん=宴)しかつ喜(たの)しまむ  第一章
季女というのは、詩の用語においては、家に残されて祭事に使える、嫁ぐことのゆるされぬ女である。その末娘が、いま車の音を響かせて、家を離れる。飢渇とは欲望。それを満たすために嫁ぐのではない。ほんとうに魂合える人を得たのだが、しかしそれはやはり許されぬ行為である。だれも祝福してくれるものもない結婚だが、ひそかな喜びをもってお前を送ろう。かく歌うものは、おそらく身内の人であろう。ここでも采薪のことが行われる。
  彼の高岡(かうかう)に陟りて その柞薪(*くぬぎの薪)を析(き)る
  その柞薪を析れば その葉湑(しょ)たり(*茂りあう)
  ここに我、爾(なんぢ)を覯(み)て 我が心寫(のぞ)く(憂いが晴れる)  第四章
 柞薪の葉が湑々として茂るのは、めでたい予兆として、その結婚を祝福するのである。そして篇末の第五章に
  高き山は仰(あふ)ぎ 景(おほい)なる行(みち)は行く 
  四牡(しぼ:四頭立ての車)騑々(ひひ)として 六轡(りくひ*六本のたづな)琴(こと)の如し(よくさばかれる) 
  爾(なんぢ)の新婚を覯(み)て 以てわが心を慰(なぐさ)む
と歌う。祝頌であり予祝ではあるけれども、それはあくまでもひそやかに、惧れにみちたものである。ただ高山は人の仰ぐところ、景行は人の行くところ、その徳音をたのむのみである。采薪の発想を用いているが、それは反興に近いものを感じさせる。
 周南の「漢広(かんこう)」は、漢水の女神を祀るものであるが、第一章に「南に喬木(きょうぼく)あり 休(いこ)ふべからず 漢に遊女(いうぢょ)あり 求むべからず」と歌われる女神は、その祭祀において、男神との結婚のためにあらわれるのである。
  【堯羽】々(げうげう)たる(*勢いよく伸びる)錯薪(さくしん*茂りあう小枝) ここにその楚(そ*ほつえ)を刈る
  この子ここに歸(とつ)ぐ ここにその馬 秣(まぐさか)ふ
  漢の廣き 泳ぐべからず 江の永き 方(いかだ)すべからず  第二章
 「この子ここに歸ぐ」というのは、女神が男神のところに赴くのをいう。いわゆる神婚である。それで末四句のリフレーンは、三章にわたってくりかえされているものであるが、その女神を咨嗟することによって、女神への深い思慕を示すものであった。そしてこのような伐薪の俗が、やがて結婚の祝頌詩や恋愛詩の一般的な発想となる。個々にもまた、祝頌詩・祭礼詩から恋愛詩への傾斜のしかたを、あとづけることができるのである。

 以上、いささか長い引用となったが、ここで記される中国「詩経」の
  彼の高岡(かうかう)に陟りて その柞薪を析(き)る
  その柞薪を析れば その葉湑(しょ)たり
  ここに我、爾(なんぢ)を覯(み)て 我が心寫(のぞ)く
という詩に注目しよう。
 これは「万葉集 東歌・相模国歌(巻14・3433)」にみえる(→【万葉時代の「かまくら~可麻久良」】・【「武蔵国久良郡」】)
  多伎木許流 可麻久良夜麻能 許太流木乎 麻都等奈我伊波婆 古非都追夜安良牟 
  (たきぎこる かまくらやまの こだるきを まつとながいはば こひつつやあらむ)
  (薪伐る 鎌倉山の 木垂る木の まつと汝が言はば 恋ひつつやあらむ
の歌と非常によく似た発想の歌とはいえないだろうか。
 双方の詩歌はともに、「伐薪の神事を行うための見晴らしのよい丘に登る」という点と、「お前の心次第で、私の心が決まるのだ」という点に、興を得ている。(但し、「詩経」では「爾(なんじ)」と「我」は相愛のようだが、「東歌」では「汝」と「詠み人」の心は相愛ではないようだ。)
 おそらく東国の「かまくら」地方は、古くより「采薪(さいしん)」の神事やそこから派生する「神婚」の神事に関わるある種の神域であり、あらゆる権力層から求められ、かつ畏怖される聖域であったのだろう。そしてその守護神は、のちに男性の為政者や権力者から「汝(な)」・「爾(なんぢ)」と蔑称されるようになる女神であったのではないかとも想像できる。

 そして「古事記(→日本武尊と弟橘姫【似たような話】・【舟のミチと「弟橘姫」】・【神奈川の地名(1)】・相武国造【鶴見寺尾図幻影(14)寄進地型荘園と大庭御厨】・太安万侶【寺と地図(3)「鶴見寺尾図」の古墳時代】)」にみえる日本武尊と弟橘姫の恋物語も、「詩経」の漢水(川)の女神と男神の神婚の詩をモティーフに、それまで弟橘姫という女神が守護してきた海路や水路を、日本武尊という男神が庇護下におこうとしたが果たせなかった、という歴史の一場面を物語にして書き残したものと考えることもできる。(ギルガメシュ叙事詩→【市をめぐる誇大妄想(5) 「ギルガメシュ叙事詩」】・【市をめぐる誇大妄想(6) 記紀神話】)

 もしかすると、「万葉集(7世紀後半~8世紀後半に編纂)」で「東歌」を歌った東国の人々には、中国最古の詩集「詩経(周王朝初期から東遷後百数十年に及ぶ紀元前10世紀~紀元前6世紀頃の、朝廷の祭祀や饗宴と各地の民間歌謡を収録したもの。当初はただ「詩」と呼ばれ、のちに「毛詩」、南宋の頃に「詩経」と称される。)」の知識があったか、「詩経」に歌われる習俗とよく似た風習があったのかもしれない。
 そしてそこには、西国朝廷の知識人たちが野卑と感じる「東国文化」の臭気とともに、彼らが憧憬してやまない「大陸文化」の芳香が含まれていた、ということはないだろうか(→もろこしが原【宿坊港湾都市(7)あずまこく】・杉山神社【製鉄に関わる人々の記憶(2)杉山神社】・【鶴見神社(3)杉山神社と遣唐使】・【鶴見寺尾図幻影(8)修験道】・蕃神台貝塚【「蕃神台貝塚(ばんしんだいかいづか)」】)。


*参考文献:白河静著「古代中国の民族」 (講談社学術文庫・1980年5月10日第1刷発行)
# by jmpostjp | 2011-02-14 19:18 | Trackback | Comments(0)

夢うつつ (4)都市と貨幣経済

 「鶴見寺尾図」の一帯(→【重要文化財「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」】・【鶴見寺尾図のミチを辿って】・【宋の測量技術・記里鼓(キリコ)と東海道】)には、平安時代に「師岡保」という都市があったというから(→【神奈川の地名(4)『師岡佮良但馬次郎』】・【師岡保】)、鎌倉時代頃の『馬喰田(→【『馬喰田』と伯楽と白楽と】)』に市場ができる以前も(→【夢うつつ(2)VIP専用市場】・【夢うつつ(3)錬金術師たち】)、やはり「祭祀を中心とする市の街」であったことが想像できる。なぜなら都市と市場(貨幣)経済は、いつも密接な関係にあるからだ(→【前項】・【「えの木戸はさしはりてみす」】・【商業ギルド(9)銭貨の運用停止と鎌倉幕府の成立】)。

 「寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)」が朝廷より源頼朝に下され、朝廷は頼朝に東国における荘園・公領からの官物や年貢の納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した。
 そして同じ年(寿永二年:1183年)、「武蔵国師岡保内大山郷」が鶴岡八幡宮領とされている(→【師岡保】)。
 おそらく「鶴見寺尾図」の一帯は、奈良時代や平安時代に郡衙がおかれたり、公領となったりした期間があったかもしれないが(→【神奈川の地名(3)久良郡諸岡郷】・【飛鳥京・石神遺跡~「諸岡五十戸」の木簡】)、「鎌倉の見越しの崎の岩崩の…(→【万葉時代の「かまくら~可麻久良」】)」と詠まれるほどに軟弱な地盤や、「師岡(もろおか)」と称されるほどに少ない平地部(→【神奈川の地名(4)『師岡佮良但馬次郎』】)に、度々の天災がかさなったこともあり(→【商業ギルド(8)天災と都市整備】)、いつしか西国朝廷から打ち捨てられた土地となっていたのではないだろうか。それを土着の人たちやこの地に流れ着いた人たちが手間と愛情と技術を駆使し、常に再開発を行って利用していたものを(→【『稲荷 堀』~富士山の噴火と埋立て】)、ついには「私領」として「鶴岡八幡宮」に寄進することで、国司による土地の没収を防ごうとしたのではなかったか(→【鶴見寺尾図幻影(14)寄進地型荘園と大庭御厨】)。
 東海道新幹線・新横浜駅南面の「篠原口」あたり(絵図の『祖師堂』西側の『野畠』位置→【『祖師堂』(1)二転三転】・【鶴見寺尾図幻影(5)表谷・表谷戸】)に残る「篠原」の地名の由来が、寿永二年(1183年)五月の「倶梨伽羅峠の合戦」に続く、同年六月の「加賀国篠原安宅」の合戦で敗れた平維盛維盛の兵士たちが、現在の港北区篠原あたりに逃れて来て住みつき、後に自ら一村をなした(→【篠原・仲手原と『鎧窪』】)との伝承に因むことや、「仲手原」はダイダラ坊が奮闘もむなしく力尽きて転んだときに出来上がったという伝承があることも、そうした歴史の一コマをあらわすものといえそうだ。

 もともと東国の人々にとっての西国朝廷とは、税を取り立て、勝手に制定した法令をたてに利権を主張するばかりで、ともに汗を流すことをしない異国の人、くらいに思えていたかもしれない(→【市をめぐる誇大妄想(13)真間手児奈】)。しかし大陸間貿易に関わる港街なら、弱小なネットワークでは商取引を有利に運べないことは知っていたし(→【商業ギルド(2)マグリブの商人とジェノバの商人】)、また歴代中国王朝の多くが朝貢貿易(→【商業ギルド(10)大陸間貿易】・【鶴見神社(2)「入唐求法巡礼行記」】・【「オトタチバナヒメ」と「媽祖観音」】)しか認めないことも知っていたから、「日本の王(→【中世の商業・金融ネットワーク(6)貨幣の力+神仏の力)】・【師岡保】)」の許認可状を得るため、天皇を戴く朝廷と真っ向から対立するわけにもいかなかったと考えられる。
 よってこうした土地は、非常に大きな財力と強い自治権を有する都市であるにもかかわらず、「誰のものでもない土地(無縁所・アジール→【雲引きの虹橋~「1405年綱島郷橋供養」】・【宿坊港湾都市(3) the third place】)」を選択するより道はなかったが、それも結局は天皇家や摂関家や幕府のあいだで奪い合いの対象とされ(→【西園寺家の所領】・【鶴見寺尾図幻影(14)寄進地型荘園と大庭御厨】)、統率者があいまいとなるうちに自治も財政も崩壊してしまうようなことがあったやもしれない。
# by jmpostjp | 2011-01-18 16:48 | Trackback | Comments(0)

番外:都市の誕生

 2011年1月7日付の日本経済新聞25面にこんな記事がある。以下はその抜粋である。(*部は筆者による加筆。)
 
 ゼミナール 市場を考える
         ④都市の誕生~見知らぬ人との取引、貨幣が媒介

 人々が集まり、お互い誰が誰だかわからない状態になったのが都市(*→【師岡保】・【神奈川の地名(4)『師岡佮良但馬次郎』】・【商業ギルド(9)銭貨の運用停止と鎌倉幕府の成立】)である。都市では顔の見える関係はもはや一部でしかない。多くの人は明日再び会うかどうかわからない見知らぬ人である。人間の欲求が多様化して、さまざまなものが作られるようになると、小さな集落よりも大きな集落、そして大きな都市のほうが、より暮らしやすくなってくる。ひとり人間がさまざまなモノを作ると、いたって効率が悪くなるため、モノの種類と豊富さは、人数に左右されるからである。
 半面、顔が見えない関係が増えることで、問題も発生する。共同体では、長期的な関係に基づく相互監視が自然状態を克服するために使われたが、都市では、そのような機能は著しく限られる。それに代わるのが、法であり(*→【『祖師堂』(5)明恵と北条泰時】・【鶴見寺尾図幻影(12)承久の乱と北条泰時】)、それを作り、守らせるための権力機関が登場する(*→【商業ギルド (6)雑訴決断所】)。
 そのような都市では、共同体のような記録や記憶だけでは取引がおぼつかない。かといって、物々交換では、互いに相手が欲しがるモノを持っていなければ取引が成立しない。誰でも受け取ってくれるモノ、貨幣が登場することになる(*→【中世の商業・金融ネットワーク(8)貨幣≒神】)。
 古くは、世界四大文明の一つ、メソポタミア文明(*→【市をめぐる誇大妄想(3)メソポタミア文明】・【市をめぐる誇大妄想(7)宮女と王権】・【寺と地図(5)荘園図と行基海道図】)において貨幣が使われたとの記録がある。くしくも現存する世界最古の法典であるハンムラビ法典もメソポタミア文明の産物である。
 貨幣の本質は記録や記憶を代替している点にある。取引の記録をすべてつけて、見返りを期待する代わりにその場で貨幣を受け取ってしまう。あるいは渡してしまう。それによって、誰に何をどのくらいあげたかをいちいち記録する必要がなくなる。この本質に鑑みれば、貨幣は貴金属である必要はなく、米や紙切れでもかまわない(→【商業ギルド(9)銭貨の運用停止と鎌倉幕府の成立】)。
 顔の見えない取引はこのように、顔が見えない都市という場に浸透していくことになる。顔が見えない取引は、顔で差別しない取引でもある。都市でモノとカネを交換する商人たちは早くから顔で人を差別しない行動規範を身につけたのである(*→【商業ギルド(2)マグリブの商人とジェノバの商人】・【市の立つ場所】・【雲引きの虹橋~「1405年綱島郷橋供養」】)。  (東京大学教授 松井 彰彦)
# by jmpostjp | 2011-01-09 22:35 | Trackback | Comments(0)