横浜市営地下鉄「センター北駅」を降りたところに、「横浜市歴史博物館(横浜市都筑区中川中央1-18-1)」という施設がある。2年ほど前(2007年10月20日~11月25日)、ここで「鶴見区区制80周年」を記念して、「鶴見合戦~『太平記』にみる横浜~」という企画展が行われた。主催は「横浜市歴史博物館」、共催は「横浜市教育委員会」、後援は「鶴見区区制80周年記念事業実行委員会」である。
この企画展では、関東地方に現存する唯一の南北朝時代の絵図「武蔵国鶴見寺尾郷絵図(→【重要文化財「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」】・【宋の測量技術・記里鼓(キリコ)と東海道】)」をはじめ、中世の鶴見に関する200余点の資料が展示された。 そのときの「博物館HP」によれば、鎌倉時代の鶴見地域は、鶴見川と鎌倉道が交差する流通・戦略上の要衝で、元弘三年(1333年)の鎌倉幕府滅亡と、建武二年(1335年)の「中先代の乱」の際には、この地域でも戦乱があり、これが「鶴見合戦」と呼ばれた、と記されている。 鶴見の地は、古来より「鶴見川」と「鎌倉下の道」の交差する場所に位置し、物流面の重要拠点であると同時に、軍事面でも常陸や房総方面から鎌倉へ攻め込んでくる軍勢をくい止めるための防御拠点であったので、鎌倉時代末期から室町時代にかけ、鎌倉の領有をめぐって争奪戦が繰り返されると、その影響を大きく受けた、というのである。 「1度目の鶴見合戦」は、元弘三年(1333年)、鎌倉幕府滅亡の際におこった。このときは金沢貞将(→【「亀谷」(3)亀谷殿】)が、新田義貞方(南朝方)についた千葉貞胤(1312年に家督を継いで千葉氏当主となり、伊賀や下総の守護職を継承した。)と鶴見の末吉橋付近で戦って破れ、東勝寺に向かった後、討ち死にしたほか(→【鶴見寺尾図の用水路(7)鶴見合戦】)、下野国の小山貞朝が、鎌倉へ進撃中に鶴見付近で戦死したことが知られている。 「2度目の鶴見合戦」は、建武二年(1335年)年七月二十四日、「中先代の乱(→【中先代の乱(1)征夷大将軍・護良親王の死】)」の最中におこった。鎌倉奪還を謀って信濃で挙兵した北条時行の本隊は、「鎌倉上の道」を通って鎌倉へと進んでいたが、これに呼応した別の一派が「下の道」を進み、鶴見周辺で後醍醐天皇方についていた佐竹一族と戦ったのである。このとき佐竹貞義の五男・義直は鶴見で戦死したが、佐竹貞義は鎌倉を追われた足利直義を、三河に逃すことに成功している。 しかし「中先代の乱」を経て鎌倉奪回に成功した北条時行や諏訪頼重らも、ほどなく東下した足利尊氏軍に敗れ、再び鎌倉を取られてしまう。(北条一族と対立していた佐竹氏は、この時、義直らのはからいで、陸奥国の自領を奪還している。) こうした幕府の崩壊から南北朝の混乱期に、鶴見の地は群雄による争奪が繰り返され、後北条氏の時代になると、その配下の諏訪氏(→【小笠原氏と信濃】・【中先代の乱(4) 清拙正澄と小笠原貞宗】)が当地を領した。今も鶴見区に残る「諏訪坂(→【鶴見寺尾図のミチを辿って】)」などの地名は、その当時の名残りとされている。 鎌倉時代の頃、信州(→【とはずがたり(3) 貧相な貴族vs居丈高な武士】)・上州方面や常総方面から、徒歩や馬で鎌倉へ入ろうとすれば、鎌倉圏の東端で、街道沿い(鎌倉下の道→【『巨大な寺』(2)北向き】)に位置する鶴見の地を通ることが自然である。また、内海の沿岸や川沿いを小舟で進む際も、やはりこのあたりを航行するのが便利だった(「鶴見寺尾図」の域内は北を鶴見川、南を内東京湾と港に挟まれている。)。 2度の「鶴見合戦」の舞台となった鶴見は、鎌倉下の道と鶴見川とが交差する場所だから、下総(現・千葉県北部→【宿坊港湾都市(7)あずまこく】・【「えの木戸は さしはりてみす」】 )の千葉氏、下野(現・栃木県→【新羽と日光東照宮】)の小山氏、常陸(現・茨城県→【鶴見寺尾図の用水路(4)横溝屋敷】・【鶴見寺尾図の用水路(5)東山道と東海道】)の佐竹氏などが、鎌倉へ出仕の際、幾度もこの道筋を通ったのだろう。また彼らの祖先は、みな関東の土豪で、のちに東国武士団を形成したが、その祖先たちが平安時代に、朝廷の命で奥州攻略に赴いた際も、やはりこのあたりの道を使用したのだろうと考えられている。 鎌倉幕府が、首府東方における最初の防衛線を、鶴見川・多摩川の辺りに想定していたことは(かつての鶴見川の流路については→【鶴見川の流路(1)金蔵寺】・【鶴見川の流路(2)まむし谷】・【鶴見川の流路(3)不自然な湾曲】)、この地を中心とする南武蔵の低地開発を、早い時期から積極的に行っていることからもわかる。たびたびの氾濫にみまわれた鶴見川・多摩川の両流域で、土地の開墾と干拓を行い、幹線街道を保全し、物流の安定と軍備の補強を図ることは、幕府の重要課題であった。 そして鶴見の地もまた、鎌倉幕府に重要視されたことは、1192年に源頼朝が佐々木高綱を奉行として「真言宗・瑞雲山三会寺(→【『本堺』(2)「瑞雲山三会寺(さんねじ)」】)」を建立したこと、延応元年(1239年)に、北条泰時が佐々木泰綱に「武蔵国小机郷鳥山等」の荒地開発を命じたこと(→【1239年「鳥山の開発」と1334年「鶴見寺尾図」】)、有力御家人の安達氏が館を構え、1241年には将軍・九条頼経ら500人を迎えたこと(→【神奈川の地名(2)武家と貴族の輪舞】)や、この地が幕府お抱えの「鶴岡八幡宮」や「建長寺」の所領とされたことからも伺える(→【臨済宗・巨福山建長寺】・【建長寺正統庵領鶴見寺尾郷】・【重要文化財「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」】)。 しかしそれよりもっと興味深いことは、1333年と1335年の2度にわたる「鶴見合戦」の年に、2人の親王将軍がそれぞれ京に戻ることなく鎌倉で薨じた、という事実かもしれない(→【鶴見寺尾図の用水路(7)鶴見合戦】・【中先代の乱(1)征夷大将軍・護良親王の死】)。
by jmpostjp
| 2010-01-30 22:04
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