「鶴見寺尾図」は、建武元年(1334年)五月十二日に作成された、鶴見・寺尾両郷に関する境界論に関する文書である、という(→【重要文化財「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」】・【宋の測量技術・記里鼓(キリコ)と東海道】・【鶴見寺尾図のミチを辿って】・【くり返し使用される絵図】)。
このとき、『建長寺正統庵領鶴見寺尾郷(→【建長寺正統庵領鶴見寺尾郷】)』は、『寺尾地頭阿波国守護小笠原太郎入道(→【『寺尾地頭阿波国守護小笠原蔵人太郎入道』】)』・『末吉領主三嶋東大夫(→【浦島太郎の亀と道教神・玄武】)』・『子安郷(子ノ神?)』の3者によって、中心から三方に伸びる『ミチ』を境界として『押領(→【地頭と下地中分(したじちゅうぶん)】・【中世の商業・金融ネットワーク(11)『小笠原蔵人太郎入道』・『三嶋東太夫』・『子安郷(子ノ神?)』】)』された。 その翌年、北条高時の遺子・時行(ときゆき)が鎌倉幕府の復興をめざして信濃で挙兵する。このとき時行を擁護したのが、「白幡神社(鶴見区東寺尾2-10-19:絵図の『五郎三郎堀籠』位置)」を参拝したと伝承される諏訪頼重(→【前項】・【白幡神社と『五郎三郎堀籠』(1)諏訪氏】)である。時行と諏訪頼重らは、武蔵で足利直義(ただよし)らを破って、鎌倉を一時占領した。建武二年(1335年)七月から八月にかけて起こったこの動乱は、「中先代(なかせんだい)の乱」と呼ばれている。 この戦乱の最中、足利尊氏と反目して鎌倉に幽閉されていた護良親王(もりよししんのう・もりながしんのう:後醍醐天皇の皇子。母は北畠師親の娘・親子。建武政権下で征夷大将軍となる。)が、鎌倉で足利直義(ただよし:尊氏の弟。)によって殺害されている。 護良親王は、足利尊氏と対立していたこともあり、建武元年(1334年)に父・後醍醐天皇の命で拘禁され、鎌倉の足利直義のもとへ送られていたが、「中先代の乱」に際して、親王が北条氏の手に渡ることを恐れた直義が、親王殺害を決めたという。 しかし、足利直義を駆逐して鎌倉を占拠した北条時行らも、ほどなく東下した足利尊氏軍と戦って敗死する。そして「中先代の乱」の後も鎌倉にとどまった尊氏(→【白幡神社と『五郎三郎堀籠』(2)外洋船の港】)が、独自政権樹立の構えを見せると、後醍醐天皇との関係が悪化、建武三年には上洛して天皇を比叡山へと追いやった。が、今度は後醍醐側の反攻に遭って九州に逃れ、体勢を立て直して再び上洛して京都を制圧すると、同年十一月に光明天皇(北朝)を擁立し、新たな武家政権(室町幕府)を開いた。いったんは捕虜となった後醍醐天皇は、吉野に逃亡して南朝を創始した。 余談だが、「中先代の乱」鎮圧に向かう尊氏軍に、「武蔵国小机郷鳥山等」の荒地開発で指揮をとった佐々木泰綱(→【1239年「鳥山の開発」と1334年「鶴見寺尾図」】)の子孫・佐々木導誉(→【中世の商業・金融ネットワーク(4)佐々木導誉】・【検非違使(2)祖父「定綱」・父「信綱」・息子「泰綱」の場合】・【佐々木信綱と北条氏】・【佐々木六角氏】)が従軍し、鎌倉を奪還した尊氏が独自に恩賞の分配を行うと、導誉も上総国や相模国に領地を与えられている。佐々木氏が、小笠原氏に比して慎重で、時流を見る目があった、と感じられるのはこうした部分だ(→【『犬逐物原』と『海岸線』のある領域】)。 話を元に戻そう。現在、鎌倉市二階堂に置かれる「鎌倉宮(かまくらぐう。「大塔宮」とも。)」には、この地で殺されたという護良親王が祀られおり、護良親王の生涯について「HP」に記されている。以下はその一部の抜粋である。 護良親王(もりながしんのう)は、延慶元年(1308年)に後醍醐天皇の皇子として誕生し、6歳で京都の三千院に入り、11歳で比叡山延暦寺に入室、尊雲法親王(そんうんほっしんのう)、または大塔宮(おおとうのみや)と呼ばれた。 20歳で天台座主(慈覚大師、智証大師→【『稲荷 堀』~富士山の噴火と埋立て】・九条兼実の実弟・慈円→【聖福寺殿~鶴岡八幡宮別当・隆弁】)となり、その後、元弘元年(1331年)六月には、鎌倉幕府の専横政治に国家の荒廃を憂いた父・後醍醐天皇とともに、比叡山で討幕の挙兵を準備していた。しかし、この計画が幕府に知られ、天皇は隠岐に配流される。親王は還俗して、名を護良(もりなが)と改め、天皇の代わりとなって、楠木正成(→【中世の商業・金融ネットワーク(3)楠木正成】)らと幾多の苦戦にも屈せず、大群を吉野城や千早城に引きつけた。 この間、親王の討幕を促した令旨(りょうじ)に各地の武士が挙兵し、足利高氏(あしかがたかうじ)・赤松則村(あかまつののりむら)が六波羅探題を落とし、新田義貞(→【鶴見寺尾図の用水路(7)鶴見合戦】)は鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅亡する(→【鶴見寺尾図の用水路(14)縄文から鎌倉まで】)。 後醍醐天皇が京都に還御(かんぎょ)した後、親王はこの功により兵部卿・征夷大将軍となるが、高氏は征夷大将軍を欲して、諸国の武士へ自らが武家の棟梁であることを誇示したため、親王は高氏による幕府擁立を危惧して、再度兵を集めた。 しかし、逆に高氏の奸策(かんさく)で捕らえられ、建武元年(1334年)十一月十五日、鎌倉・東光寺(とうこうじ)の土牢(つちろう)に幽閉される。 翌・建武二年(1335年)七月二十三日、残党を集めて鎌倉に攻め入った北条時行の軍に破れた高氏の弟・足利直義は、逃走の際、家臣の淵辺義博(ふちべのよしひろ)へ親王暗殺を命じ、親王は9ヶ月の幽閉の後、28歳の若さで薨去した。 明治二年(1869年)二月、明治天皇は、建武中興に尽くして非業の最期を遂げた護良親王の遺志を称え、親王終焉の地である「東光寺跡」に神社造営の勅命を発して、自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけた。 南北朝時代に「東光寺」と呼ばれた寺は、江戸時代末期には既に衰退しており、明治の神仏分離令で廃寺となった。現在の「鎌倉宮」は、この「東光寺跡」に明治期に創建されたものだ。境内の山腹に、8畳ほどの土牢が再現されているが、境内で鎌倉時代の遺構は何も見つかっていない、という。
by jmpostjp
| 2010-01-04 19:38
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