鎌倉・室町幕府の職名に「地頭(じとう)」というのがある。地頭とは本来、「現地」あるいは「現地を強力に支配する在地有力者」をさす名称であった。平安時代の平氏政権下では、平氏家人(けにん)が地頭に補任(ぶにん)されたこともあったが、源頼朝が治安維持を目的に、「平家没官(もっかん)領」や「謀反人跡」の没収地に地頭を設置したことで制度化され、租税を徴収し、京都・鎌倉の警備、盗賊や罪人の裁判などをつかさどり、非常のときには軍役に従ったりした。室町時代以降は、一区域の土地の領主を指す語として使用される。
鎌倉時代、荘園・国衙領単位の没収地に設置された地頭を「壮郷地頭」といい、下司(げし・げす:荘園の現地で実際の壮務を行った壮官のひとつ。在地の土豪が私領を寄進して領主から任じられたものが多い。年貢・公事・夫役の徴収や荘園の治安維持に当たり、領主からは給田・給名が与えられた。武士化するものが多く、鎌倉幕府の地頭・御家人になるものもいた。)などの本領主の権利を継承した。 一方で1185年11月、源義経(→【宿坊港湾都市(9)源義経】)の追捕を契機として、勅許を得て畿内・西国で国単位に地頭が設置されれることになり、これを「国地頭」といったが、各地で混乱を招き、翌年に廃止されている。 この後も壮郷地頭は維持され、1221年の「承久の乱(→【『寺尾地頭阿波国守護小笠原蔵人太郎入道』】)」では3000余の没収地が新たに設置され、一挙に拡大してゆく。このとき新補率法を適用された地頭を、従来からの本補地頭に対して「新補地頭」という。地頭の補任・改替権は鎌倉幕府に属し、本所・領家には直接の改替権はなかったため、地頭による荘園・国衙領の侵略が進行した。また下地中分(したじちゅうぶん*脚注)や地頭請(地頭が豊凶にかかわりなく、契約した年貢額の納入を請け負う制度)などの方策も地頭の一円領主化を促進した。 *下地中分(したじちゅうぶん) 下地とは、田畑・山林・原野・河川など地域の中で、収益の対象となる土地そのものを指す。これを荘園領主と地頭との間で分割し、それぞれの領分について、互いに完全支配を認め合うのが下地中分である。特に鎌倉時代、もともとその土地の支配権(「下地進止権」)をもたない地頭が、荘園や国衙領を押領するようになり、領家(荘園領主。公卿である場合が多い荘園領主が権威を求めて上位の領主に名目的に寄進した場合は、寄進先を本家といい、自らを領家といった。)との争いの末、以後相互に干渉しない約束で、土地そのものを一定の比率で分割した。分割方式には領域的に分割する場合、耕地だけを坪ごとに分割する場合などがあった。前者の場合は中分絵図が作成された。 →1258年の「伯耆国東郷荘下地中分絵図(ほうきのくにとうごうのしょうしたじちゅうぶんえず)」
by jmpostjp
| 2009-12-18 16:23
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