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とはずがたり (10) 久明親王の東下

 正応二年(1289年)九月十四日、第7代将軍・惟康親王が罷免されると(→【とはずがたり(5)惟康親王の追放】。第6代将軍宗尊親王の更迭→【とはずがたり(6)「おなじながれ」】)、同年十月一日には、後深草天皇の第六皇子が親王宣下を受けて久明親王(1276年-1328年。母は藤原公親の娘・房子)となり、六日に後深草院御所で元服の儀を済ませて、九日には14歳で征夷大将軍に任命された。
 あくる日の十月十日、親王一行は早くも鎌倉へ向けて出発し、同月二十五日に鎌倉へ到着(つまりこのとき、京から足柄山を越えて鎌倉へ辿りつくには、15日間が必要だったことがわかる。→【とはずがたり(7)平頼綱と北条貞時邸】・「更級日記」→【宿坊港湾都市(7)あずまこく】・「古事記」→【似たような話】)。
 惟康親王の罷免から、久明親王の「立親王」・「元服」・「将軍任命」・「鎌倉下向」までの日程が余りに慌しいのは、裏返してみれば、非常に迅速な手配に則って進められた結果とも見えるから、もしかするとこれも、事前に周到な計画があってのことかもしれない。
   
 「とはずがたり」のなかで、「相模殿(執権・北条貞時)」の屋敷とおぼしき場所で、平頼綱やその奥方と面会し、また新将軍となる久明親王の御所のしつらいを検分した後深草院二条は(→【前項】)、親王の鎌倉到着の日の様子もかなり詳細に記している。
 
 それによれば、ついに将軍が到着されるという日、若宮小路には、ぎっしりと人だかりができている。関所まで出迎えに参上した人々のうち、先陣はもう戻っていて、二三十騎、四五十騎と、ものすごい数が通り過ぎてゆく。
 まもなく親王の行列がお見えになるというので、召次(めしつぎ:従者)のようなものだろうか、直垂(ひたたれ)を着た小舎人(ことねり)と呼ばれる者たちが、20人ばかり走って来る。そしてその後には、思い思いの直垂(武士の幕府出仕用の平服)に身を包んだ大名たちが群れをなしてそぞろ歩き、それが5・6町(約500~600m)はあろうかというほどに続いてゆく。
 御輿の中の新将軍は、女郎花(おみなえし:襲の色目。表は黄、裏は萌黄色。秋に用いる。)の色に染めた膨れ織りの下衣(したぎぬ)をお召しになられているようなのが、御輿(みこし)の御簾(みす)が上げられているのでわかる。
 御輿の後方には、「飯沼の新左衛門(平頼綱の次男・飯沼資宗。このとき23歳。そうなると「とはずがたり(巻四・八五~小町殿」)」に見える「平二郎左衛門」は、やはり長男の平宗綱だろうか。)」が、木賊色(とくさいろ:青黒い萌黄色)の狩衣(かりぎぬ:公家・武家の礼服。)姿でお供をしていて、こちらも(親王の下衣や秋の風情と調和しているのは)なかなかたいしたものだ。
 御所では当国司(北条貞時)や足利貞氏(室町幕府初代将軍・足利尊氏の父)をはじめとして、然るべき人々が皆、布衣(ほうい:布製の狩衣。礼服。)を着た姿で新将軍をお迎えし、また「御馬御覧」の儀式で馬が引かれたりして、祝賀ムードを盛り上げている。
 新将軍は、三日間は「山の内(→【「甬道(ようどう)」と「切通し」】)」と呼ばれる「相模殿(執権・北条貞時)の山荘」へ入られるということで、華やかな行事を見聞きするうち、二条は、自身がかつて後深草院の御所で過ごした日々を思い出し、感慨もひとしおとなる。
 
 以下は、「とはずがたり(巻四・八七~新将軍・久明親王の東下)」後半部の抜粋である。

 すでに将軍御着きの日になりぬれば 若宮小路は 所もなくたちかさなりたり 御せきむかへの人々 はや先陣はすすみたりとて 二三十 四五十騎 ゆゆしげにてすぐるほどに はやこれへとて 召次(めしつぎ)などていなるすがたに ひたたれきたる者 小舎人(ことねり)とぞいふなる二十人ばかりはしりたり そののち大名ども 思ひ思ひのひたたれに うちむれうちむれ 五六丁にもつづきぬとおぼえて過ぎぬるのち をみなへしの浮織物(うきおりもの)の御下ぎぬにやめして 御輿の御すだれあげられたり のちに飯沼の新左衛門 とくさの狩衣にて供たて供奉(ぐぶ)したり ゆゆしかりしことどもなり 
 御所には 当国司 足利より みなさるべき人々は布衣(ほうい)なり 御馬引かれなどする儀式めでたく見ゆ 三日にあたる日は 山の内といふ相模殿(さがみどの)の山荘(さんさう)へ御入りなどとて めでたくきこゆることどもを見きくにも 雲井のむかしの御ことも思ひいでられて あはれなり 
by jmpostjp | 2009-09-08 22:31 | Trackback | Comments(0)


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