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太田道灌の「兜塚伝説」

 前項に記した「太田道灌の兜塚(鶴見区駒岡町2482)」が置かれる場所は、鶴見寺尾図では『泉池(現・三ッ池公園)』の北東に書かれた『田』位置で、『本堺堀』に沿った場所に重なっている。

 駒岡に残る「太田道灌の兜塚伝説」は、1457年に江戸城を築いた太田道灌が、その支城を「加瀬の台(現・川崎市幸区)」にも築こうと、ここで一夜を過ごした際、「一羽の白鷲が道灌の兜をさらって飛び去り、南西の地に落とす夢」を見たため、それを不吉として「加瀬の台」での築城をあきらめ、この地を「夢見ヶ崎」と名付けるとともに、鷲が兜を落とした場所に自身の兜を埋めたので、その地が「兜塚」と呼ばれた、というものである。
 実は、駒岡の「道灌の兜塚」位置には、それよりずっと古くから「兜形の円墳(径35m・高5.8m)」が築かれていた。近年(1931年頃)になって、これが長慶天皇(1378年-1363年)の陵墓ではないかとの説が起こり、発掘調査を行なった結果、瑪瑙の勾玉・水晶の切子玉・青銅鍍金の金環などが発見され、古墳時代後半(6世紀頃)の古墳と推定されるに至っている。

 道灌が「夢見ヶ崎」と名付けたという「加瀬山」は、長さ約750m・幅約150m・標高約35mの丘で、かつてはここから東京湾が一望できたという。多摩川と鶴見川に挟まれ、鎌倉街道が近くを走るこの丘は築城に格好の場所であったが、この地にも太古より続く人々の長い暮らしの歴史があった。
 例えば、加瀬山の南東(旧・日吉出張所近辺)には、縄文と弥生の二つの時代特色をもつ「南加瀬貝塚」があった。
 また、加瀬山の西端(現・白山幼稚園の南西)には、4世紀のものとされる「白山古墳」(全長87mの前方後円墳。ガラス玉・鉄刀・三角縁神獣鏡などが出土。鏡は京都・山口・福岡でも同系のものが出土し、当地の豪族が大和朝廷に朝貢した際の返礼品として朝廷から賜ったものと考えられている。)が、さらにその西隣には、「第六天古墳」(石棺には数種の副葬品と11体の男性が埋葬。)があった。
 そして12世紀には、美しい秋草文が施される骨臓器(現・国宝指定)を埋葬に使用できるほどの有力者がいた。
 
 加瀬山の地理と歴史については、川崎市幸市民館・日吉分館HPの「日吉地区の郷土」に詳しいが、「了源寺」(4号古墳跡)、「天照皇大神」(7号古墳跡)、「浅間神社」(6号古墳跡)など多くの寺社が、「太田道灌碑」(9号古墳跡)のように既存の古墳近くに建造されているのが面白い。
 墳墓や遺跡など「前時代の聖地」の上に寺社や城を建造することは、洋の東西を問わずしばしば見られる現象である。例えば、1979年に世界遺産に登録された「モン・サン・ミシェル修道院(Abbaye du Mont-Saint-Michel)」は、フランス・ノルマンディー海岸のモン・サン・ミシェル湾沿岸の小島に聳え立ち、潮汐の干満により、地続きとなったり海中に孤立したりすることで有名な観光地であるが、フランス初期ゴシックの代表的建造物である現在の建物は、11-12世紀に修道院として造られたもので、これが百年戦争(1339年-1453年)の際には城塞として、16世紀以降は牢獄として用いられた。
 
 おそらくは11世紀以前にも、今では忘れられた文明の興亡がこの地にあって、その遺構が地層をなして教会の下に埋もれているのだろう。後世、ヨーロッパ封建支配の過程で「封印された」こうした過去の記憶は、遍歴する職能民や吟遊詩人たちによって各地に散らばり、伝説の中に今もひっそりと眠っている。
by jmpostjp | 2008-02-19 12:53 | Trackback | Comments(0)


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