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中先代の乱 (2)「太平記」

 護良親王の殺害(→【前項】)については、南朝紀伝「鎌倉大日記(1180年〜1539年までを記す。成立年不詳。)」や「桜雲記(中世日本紀略。成立は江戸時代以降とされるが未詳。)」にも、後醍醐天皇の皇子護良親王が「東光寺」で足利直義に生害されたことが記され、また「太平記(室町時代の戦記物語。小島法師の策と伝えられるが、未詳。1371年頃成立か。後醍醐天皇の倒幕計画と建武の親政から50余年間の動乱を、南朝側の視点から華麗な和漢混交文で記述。)」にも、その詳細が語られている。

 「太平記・巻第十二」によれば、建武二年(建武元年五月十二日→【重要文化財「武蔵国鶴見寺尾郷絵図】)の「ついに五月三日 宮(*護良親王)を直義朝臣の方へ渡されければ 数百騎の軍勢をもって 二階堂谷に土の籠を塗ってぞ置きたまゐらせける 南の御方と申しける上臈女房(*身分の高い女官。御匣殿、尚侍、二位・三位の典侍、禁色を許された大臣の娘・孫など。)一人よりほかは 付きそいまゐらする人もなく 月日の光も見えぬ闇室の内に向って よこぎる雨に御袖濡らし 岩のしただりに御枕を干しわびて 年のなかばを過ごしたまいける御心の内こそ悲しけれ ・・・ 」と、ある。
 そしてその後、北条時行軍に瀬谷が原で破れた直義が、配下の淵辺(*淵野辺伊賀守義博)に親王の殺害を命じると、淵辺は山の内から主従七騎の馬で土籠にかけつけ、親王の首に刀身を近づけたが、親王は「み首を縮めて 刀のさきをしかとくわえ」たために刃先が折れ、淵辺は「その刀を投げ捨て 脇差の刀を抜いて まず御胸もとのあたりを二刀刺す 刺されて宮少し弱まらせたまふ体(*てい)に見えけるところを 御髪をつかんで引き上げ」、首を掻き落した。
 明るいところで首を見ると、口は刀の切先をくわえたままで、目はらんらんと輝いている。このような首は主人のもとへ持ち帰るべきではないとの古い慣わしに従い、淵辺は親王の首を近くの草むらに置き捨てる。この首は時を経て、理智光院の長老によりねんごろに葬られた・・・と綴られる。

 ところで、親王が幽閉された場所については、古い時代に「土の牢(→【前項】)」と記されたものはなく、「梅松論(→【とはずがたり(2) 化粧坂】)」には「薬師堂谷の御所」とあり、また「牢の御所」と書くものもあるほか、「太平記」でも「二階堂谷の土籠」とされている。
 よって「中先代の乱」の際、護良親王が幽閉されていた場所は、岩がちのほの暗い土蔵のようなところで、14世紀はじめに遊女たちが悪党を籠め置いた(かくまった)というような場所(→【中世の商業・金融ネットワーク(1)貨幣経済と市庭】)や、後に「堀籠城(→【 『性園堀籠』と松蔭寺】)に転用されるような場所にあったと考えるのが順当であり、数百騎の軍勢がその周囲を禁固するというからには、敷地もそれなりの広さがなくてはならない。
 また、親王には「南の御方~藤原保藤(やすふじ)の娘」と呼ばれる高級女官が近侍していたが、親王はこの女官との間に、後に「日蓮宗・楞厳山妙法寺(りょうごんさんみょうほじ)」を再興することとなる日叡上人をもうけているから、親王が幽閉された「土籠」が、現在の「鎌倉宮」にある山腹の洞穴(土牢)であった、というのはさすがに考えにくいだろう。
 おそらく親王は、「薬師堂谷」と呼ばれる谷あいで、周囲に数百騎の警護を配置することができ、かつ御所にふさわしい建造物(南北朝時代は「東光寺」と呼ばれている。)の一角にある、「二階堂谷」の岩陰の暗い「土蔵のような場所」に軟禁されていた、と考えるのが妥当ではないだろうか(→【巨大な『寺』(1)秘密の御殿】・【『本堺』(7)『正福寺・阿弥陀堂』と神奈川区菅田町】・【『本堺』(8)『正福寺・阿弥陀堂』の東西南北】)。

  ちなみに親王が幽閉された「土籠」について、江戸時代の「新編相模国風土記稿」では「土もて塗籠たる獄舎」と注釈され、「鎌倉覧勝考(1829年)」では「上段は入り口から6尺ばかりの深さで 2間四方余あり 下段はさらに7、8尺下って 9尺四方(*約3m四方)あり 周囲は赤い土」と、されている。明治2年に造営された「鎌倉宮」の「土牢」は、このあたりの資料を参照して作られたように思われる。
by jmpostjp | 2010-01-09 18:50 | Trackback | Comments(0)


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