平安~鎌倉~南北朝時代、天皇家や摂関家は西国の陸・海交通の結節点を戦略的に自らの支配下に置いていた。鎌倉時代に入って、(西国は勿論のこと)東国の交通拠点の多くは北条氏が押さえていたが、鎌倉に近い津・港にも、西国王朝がその支配権を延ばそうと目論んでいないはずはなかっただろう。網野善彦・著「日本の歴史をよみなおす(全)」に、こんな記述がある。
「西園寺家の所領」 こうした神社、寺院、貴族の荘園の分布から、その戦略を確かめてみますと、たとえば賀茂社、鴨社の荘園、御厨は確実に海を目指しており、それも瀬戸内海、北陸の浦や津・泊を持つ場所に確保されていることがよくわかります。伊勢神宮は東海道の太平洋岸に御厨を多く持っていますし、岩清水八幡宮も、瀬戸内海から山陰に荘園・別宮(べっく)を持っています。 天皇家、摂関家、さらに平氏についても同じことが言えますが、最近調べていて非常に面白かったのが西園寺家の所領の分布です。この家は中世、東の王権である鎌倉幕府にたいする京都の王権―朝廷の窓口の役、つまり、朝廷側で東の王権にたいする「外交」の窓口になっている関東申次(もうしつぎ)という地位を世襲した貴族の家で、大変な財力を持ち、権勢をふるったことが知られています。 この家の所領の分布を調べてみますと、まず別邸を氏の槙島(まきしま)(真木島)や淀川の入り口の吹田に持っています。こういう別邸の置かれている所には当然、家政の機関があり、船人をはじめ、さまざまな職能民が属しています。それが宇治川と淀川入口に設けられていることに注目すべきだと思います。 そのほか宇治川につづいて、巨椋池という大きな池があったのですが、そのほとりから淀川にかけて点々とある牧(→【『馬喰田』と伯楽と白楽と】・【『本堺』(5)鳥山町の馬頭観音堂】)を、西園寺家はその所領にしています。牧は川の屈曲部に柵を設けて馬や牛を飼うので、都のそばの近都牧(きんとのまき)は、諸国から貢上されてきた馬や牛をそこでしばらく飼育したのですが、こうした牧は、院の厩や朝廷の左馬寮(さまのりょう)・右馬寮(うめのりょう)が管理していました。西園寺は平氏と同様に院の御厩別当になり、それを世襲するとともに、左馬寮を知行官司(ちぎょうかんし)(知行国と同じように、その長官を推薦、任命できる官司)として自分の支配下に入れており、淀川や巨椋池の周辺にある美豆牧や、河内の福地牧(ふくちのまき)、会賀牧(えがのまき)などをすべて押さえています。 また、厩には馬借や車借が属していますから、西園寺家はこうした交通業者にも支配をおよぼしていますが、牧は川辺にあり、かならず港と結びついていて、水上交通と陸上交通の接点になっています(→【妙蓮寺~舟と馬のターミナル駅】)。このように馬や牛と船はセットになっており、牧と河海の交通の結びつきは非常に強いのです。 さらに西園寺家の独自の所領も、宇治川、巨椋池、淀川沿いに点々とあることがわかります。そのうえ鴨川と桂川の合流地点で、淀川にも近い所に院の大宮殿、鳥羽殿がありますが、その管理者にも西園寺家はなっており、鳥羽殿に付属する所領もその支配下に入っています。たとえば、淀魚市(よどのうおいち)は鳥羽殿領ですから、西園寺家は淀川の最要衝を押さえていることになりますし、鳥羽殿の近くにある荘園もすべて西園寺家の管理下に入っています。 さらに淀川から大阪湾に出て瀬戸内海にいたる海の道を見ますと、瀬戸内海への入口(入江→【鶴見寺尾図のミチを辿って】・【『ミチA』(1)平間道へ続く道】・【『ミチA』(5)『八幡宮』】・【『ミチCの終点』(5)「いちこく」「にこく」「だいさんけいひん」】)、摂津・播磨あたりにも所領を持っていますが、要港下津井を持つ備前国通生荘(かようのしょう)や、安芸国沼田(ぬた)荘も西園寺家領でした。沼田荘は沼田市庭でも有名ですが、その海辺には、最近まで家船(えぶね)といわれる海上生活者として有名だった能地の漁民、海民の大拠点がありました。そこも西園寺家が押さえています。 そのうえ、鎌倉前期から伊予国を事実上、世襲的な知行国にしており、建武新政の一時期をのぞき、室町時代を通じて伊予国は西園寺家が知行国として押さえています。とくに伊予の中でも、藤原純友が根拠にした日振島(ひぶりしま)のある宇和郡が西園寺家の拠点で、ここを押さえれば豊後水道を睨むことができますから、瀬戸内海から北九州への出入口を支配することができます。 さらに宇和島郡の真向かいにあたる豊後(大分県)の阿南荘(あなみのしょう)も持っており、豊後水道を両方から睨める所に荘園を獲得しているわけです。それから、沖ノ島で有名な筑前の宗像社は、宋人の女性が二代にわたって大宮司の妻になっているように、大陸と非常に密接な関係のある所ですが、その宗像社の領家に西園寺家はなっていますし、肥前の海の領主として有名な松浦党(まつらとう)の根拠地、宇野御厨(うののみくりや)もその所領としています。この御厨の中には松浦郡の多島海(→【神奈川の地名(4)『師岡佮良但馬次郎』】・【太田道灌の「兜塚伝説」】)の浦々、津・泊がふくまれており、その牧は馬だけでなく、御厨牛という有名な牛の産地でもありました。この牛を毎年、都に送らせているのですが、これは西園寺家が厩を管理していたからだと思います。 このように見てきますと、宇治川からはじまって淀川、瀬戸内海を通って北九州、さらに肥前の松浦郡、五島列島までを、西園寺家は自らの所領として、河川、海上の交通を押さえていることになります。 前にものべたように、西園寺公経(→【前項】)は中国大陸、宋に唐船を独自に派遣して貿易をやり、十万貫という銭を鎌倉時代の中頃に輸入しており(→【「えの木戸は さしはりてみす」】) 、西園寺家の財力は大変なものだったのですが、これはこのように列島内の海上交通を支配していたから、こういう貿易ができたともいえるのです。これによっても明らかなように、このころの貴族は、じつに用意周到に交通の要地を押さえていたのです。 のちに西園寺家の一族は戦国大名になり、伊予国の宇和郡に松葉城などの城を構えていますが、ここでは表面採集だけで中国製の青白磁がたくさん拾えるようですから、本気で発掘してみたらいろいろなことがわかると思います。 *参考文献:網野善彦 著「日本の歴史をよみなおす(全)」 筑摩書房 2005年 *御厨: ●「榛谷御厨(はんがやみくりや)」→【『ミチC』(11)「社宮司公園」~「西久保公園」~「大門通」】 ●「大庭御厨(おおばみくりや)の飛地」にある「極楽寺」の「西の谷」に「聖福寺」が建立された(→【聖福寺殿~鶴岡八幡宮別当・隆弁】)。 ●武州御厨(みくりや)の庄の内「榛谷の峯」に神戸神明社が建立された(→【『ミチCの終点』(1)神戸神明社】)。 ●名和湊→【佐々木六角氏】 *唐船→【「オトタチバナヒメ」と「媽祖観音」】・【『ミチC』(10)橘樹神社】・【勧進上人】・【建長寺船と海の交易権】・ 【唐寺(とうでら)と開港地】・【東福寺と『次郎太郎入道堀籠』】・【白幡神社と『五郎三郎堀籠』(2)外洋船の港】・【住吉神倚像】 *遣唐使→【鶴見神社(2)「入唐求法巡礼行記」】・【鶴見神社(3)杉山神社と遣唐使】・【官家(みやけ)と大宰府】・【寺と地図(3)「鶴見寺尾図」の古墳時代】・【月読み(つくよみ)~夜の言葉を聴く人々】 by jmpostjp | 2009-09-29 11:17 | Trackback | Comments(0)
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