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関東申次と西園寺家

 鎌倉時代、公武間の交渉を担当した朝廷側の役職に、関東申次(かんとうもうしつぎ。関東執奏とも。)というのがあった。この職には親幕派の公卿が就任し、政務文書の取次ぎなどを行いながら、大きな権限を有していた。
 
 当初、関東申次の職は幕府側の私的な指名で任命されたが、1221年の「承久の乱(→【『祖師堂』(5)明恵と北条泰時】)」以後、朝廷の重要事項の決定は原則として関東申次を経由して幕府の許可を得る事になると、幕府側の六波羅探題(→北条泰時【『祖師堂』(5)明恵と北条泰時】・北条重時【寺と地図(8)極楽寺新造山庄】・鶴見合戦【鶴見寺尾図の用水路(7)鶴見合戦】)とともに、朝廷・院⇔幕府間の連絡や意見調整を担当して、その影響力を増していった。
 そして、1246年(寛元四年)の「名越光時の乱(宮騒動→【検非違使(2)祖父「定綱」・父「信綱」・息子「泰綱」の場合】)」の後、関東申次の職が常設化されると、失脚した九条家に変わって西園寺家がその職を世襲するようになり、大覚寺統と持明院統による皇位継承争いが激化する頃には(→【とはずがたり(5) 惟康親王の追放】)、皇位継承問題や宮中の人事にも、関東申次の一存が大きな影響力をもつまでになっていた。
 しかし、西園寺公衡(きんひら)が申次の職にあったとき、後宇多上皇に内密で持明院統の常磐井宮常明親王擁立に動いたことがきっかけで、大覚寺統から忌避されるようになり、大覚寺統が申次を無視して幕府と直接交渉を行うようになると、申次の求心力は急速に失われた。
 さらに、1333年に大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼすと、西園寺家への風当たりはますます強いものとなり、最後の関東申次となった権大納言・西園寺公宗(きんむね)は、謀反の疑いで処刑される。現職公卿の処刑は、1159年の平治の乱以来の出来事で、これは非常にセンセイショナルな事件であったようだ。

 ここで、歴代の関東申次を書き出してみよう。(鎌倉時代初期には、「将軍の義父」や「将軍の娘婿」がその職に就いていることから、富や権力の相続も、「宮廷女官チャングム」の「チェ一族」のように女系にあったことが伺える。しかし、1246年の「宮騒動」以降、西園寺家の嫡男がその職を世襲するようになると、時代の変化と並行するように、相続の形態も男系に移ってゆくのが興味深い。)
 
 ●1199年-1216年~吉田経房
  よしだつねふさ:将軍・源頼朝の知人。2人は上西門院の側近時代に知り合ったか?
 ●1216年-1244年~坊門信清
  ぼうもんのぶきよ:将軍・源実朝の義父。(→【佐々木信綱と北条氏】)
 ●1244年-1246年~西園寺公経
  さいおんじきんつね:頼朝の姪婿で、将軍・九条頼経生母の父。(→【『祖師堂』(4)鎌倉仏教】)・【『祖師堂』(6)「高山寺」と比丘尼寺「善妙寺」】・【同じ顔ぶれ】)・【神奈川の地名(2)武家と貴族の輪舞】)
 ●1244年-1246年~九条道家
  くじょうみちいえ:西園寺公経の娘婿で将軍・九条頼経の父。(→【とはずがたり(6)「おなじながれ」】・【神奈川の地名(2)武家と貴族の輪舞】)
 ●1244年-1246年~近衛兼経(九条道家と兼任)
  このえかねつね:九条道家の娘婿で、四条天皇・後深草天皇の摂政。宗尊親王御息所の父でもある。(→【とはずがたり(6)「おなじながれ」】・惟康親王生母の父【とはずがたり(5) 惟康親王の追放】・【とはずがたり(4) 新八幡】)
 ●1244年-1246年~一条実経(父・九条道家の職を一部代行)
  いちじょうさねつね:父は九条道家、母は西園寺公経の娘・准三后綸子。一条家の祖。

《1246年「宮騒動」》
 ●1246年-1269年~西園寺実氏
  さいおんじさねうじ:西園寺公経の子。承久の乱(→【『祖師堂』(5)明恵と北条泰時】)の際、後鳥羽上皇の命で父・公経とともに幽閉されたが、1246年に太政大臣に就任し、関東申次・院評定衆も務めた。娘の姞子(大宮院)は後嵯峨天皇の中宮となり、後の後深草・亀山両天皇を産む。「文永の役」に臨んで、幕府はこの実氏を通じて蒙古国書を朝廷へと回送し、朝廷は国書を黙殺している(→【霜月騒動(5)「元寇」前夜】)。
 ●1269年-1299年~西園寺実兼
  さいおんじさねかね:父は西園寺公相(実氏の次男)、母は中原師朝の娘。実氏の孫。「とはずがたり」に見える「曙の君」は、この実兼とされる(→【とはずがたり(1)後深草院二条】)。
 ●1299年‐1315年~西園寺公衡
  さいおんじきんひら:実兼の嫡男。皇位継承問題に影響力を行使。
 ●1315年‐1322年~西園寺実兼(公衡の病死に伴い、復職。)
 ●1322年‐1326年~西園寺実衡
  さいおんじさねひら:公衡の嫡男。37歳で病没。
 ●1326年‐1333年~西園寺公宗
  さいおんじきんむね:実衡の嫡男。鎌倉幕府の滅亡で関東申次の役職を停止された公宗は、地位奪回をめざして、北条氏の残党らと連絡し、北条高時の弟・泰家(時興)を匿っていた。が、これを弟の公重(きんしげ)が密告したことから、『公宗と泰家は後醍醐天皇を西園寺家の山荘「西園寺」に招いて暗殺し、後伏見法皇を擁立して新帝の即位を謀略している』との嫌疑で、日野氏光らとともに逮捕され、出雲国(現・島根県)へ流される途中、名和長年(→【建長寺船と海の交易権】に処刑された。その後、公重は南朝に従い、公宗の遺子・実俊(さねとし)が西園寺家を継承したが、以後、西園寺家の家運は衰退し、かつての勢いを取り戻すことのないまま、江戸・延宝年間(1673年-1681年)に断絶した。(第12代・第14代内閣総理大臣の西園寺公望は、明治時代に同系の徳大寺家から入嗣。)

 *追補:藤原北家閑院流・西園寺家の家格は、五摂家につぐ清華家(せいがけ)。琵琶を家業とし、藤原公実(きんざね)の三男・通季(みちすえ)を祖とする。通季の曾孫・公経が親鎌倉幕府派となって、承久の乱で京の情勢を鎌倉に伝え、後堀川院の擁立に協力したことで幕府の絶大な信頼を得、太政大臣に昇進するまでの勢力を有した。西園寺の名は、公経が1224年に京の北山にある別荘に「西園寺(のちの鹿苑寺=金閣寺)」を造営したことに始まる。後に公経は、栂ノ尾高山寺の明恵上人を戒師として出家(→【『祖師堂』(4)鎌倉仏教】)。小倉百人一首(96)に「花さそう 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり ~ 入道前太政大臣(藤原公経)の歌」がある。家紋は左三つ巴。
 
by jmpostjp | 2009-09-25 12:41 | Trackback | Comments(0)


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