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「増鏡」

 いわゆる「四鏡」と称される歴史物語に、「大鏡」・「今鏡」・「水鏡」・「増鏡」というのがある。いずれも仙人というほどに高齢な老人が、「昔、こんな事があった」と語る事象を、対話形式で記したものだ。   
 「四鏡」のなかで最も新しい「増鏡(ますかがみ)」は、嵯峨の清凉寺へ詣でた100歳の老尼が昔話を語るという格好で、寿永三年(1183年)の後鳥羽天皇の即位から、元弘三年(1333年)の後醍醐天皇の隠岐流罪と京都帰還までの、15代150年を編年体で記している。「源氏物語」や「栄花物語」の影響を受けた典雅な擬古文体で、公家の生活を描いているが、武士や鎌倉幕府に関する記述が極めて少ないことも特徴である。
 「増鏡」の書名は、序の部分で老尼が詠んだ「愚かなる心や見えん ます鏡」という歌と、筆者の「いまもまた昔をかけばます鏡 振りぬる代々の跡にかさねん」という歌に拠るというから、歴史が「増す」という意味だけでなく、「真澄鏡(ますかがみ・まそかがみ:曇りのない澄んだ鏡)」の意味も含むのだろう。
 現存のものは二十巻で、文中には「弥世継(いやよつぎ:藤原隆信の作という「今鏡」と「増鏡」の間の時代を記した歴史物語。現在は亡失。)を継承した」とも記されている。
 作者は、二条良其(にじょうよしもと:父は二条道平、母は西園寺公顕の娘・婉子。北朝4代の天皇の下で摂政・関白を務めた。)とも、洞院公賢(とういんきんかた:藤原公賢のこと。藤原氏北家閑院流西園寺家の庶流。)とも、四条家(藤原北家魚名流)関係者ともされるが、未詳である。

 この「増鏡」の「あすか川」・「草枕」・「老の波」・「さしぐし」の項には、後深草院二条の「とはずがたり」から相当量の引用があり、「とはずがたり」が「増鏡」の重要な資料とされていたことがわかっている。
 例えば、以下は「増鏡・巻十一・さしぐし(惟康親王の帰洛)」からの抜粋であるが、「とはずがたり(巻四・八六~惟康親王上洛→【とはずがたり(5) 惟康親王の追放】)」に比べて、優美な筆致ではあるものの、その内容はほぼ同じとなっている。

 其の後いく程なく 鎌倉中(うち)騒がしき事出(い)できて みな人きもをつぶし ささめくといふ程こそあれ 将軍都(みやこ)へ流され給ふとぞ聞ゆる めづらしき言の葉なりかし 近く仕(つか)まつる男女いと心細く思ひ嘆く たとへば御位などのかはる気色(けしき)に異ならず 
 さて上らせ給ふ有様 いとあやしげなる網代(あじろ)の御輿(みこし)を さかさまに寄せて乗せ奉るも げにいとまがまがしきことのさまなる うちまかせては都へ御上(のぼ)りこそ いとおもしろくもめでたかるべきわざなれど かくあやしきは めづらかなり 
 母御息所(みやすどころ)も 近衛大殿(このゑのおほとの:*近衛兼経)と聞えし御女(むすめ)なり 父皇子(みこ)の将軍にておはしましし時の御息所なり さきに聞えつる禅林寺殿(ぜんりんじどの)の宮の御方(かた)も 同じ御腹なるべし
 文永三年より今年まで廿四年 将軍にて天下のかためといつかれ給へれば 日(ひ)の本(もと)の兵(つはもの)をしたがへてぞおはしましつるに 今日は彼らにくつがへされて かくいとあさましき御有様にて上り給ふ いといとほしうあはれなり 道すがらも思(おぼ)し乱るるにや 御たたう紙の音しげうもれ聞ゆるに たけき武士(もののふ)も涙落しけり

 「とはずがたり」は、自尊心が高く奔放な元・宮廷女官のスキャンダラスな流浪譚のようにみえるが、一方で「増鏡」に引用されるほどに資料性の高い日記でもあり、その伝本は「宮内庁書陵部」に一部のみ残るという稀少なものでもある。
 もしかすると、後深草院二条は「曙の君(関東申次の西園寺実兼とされる。「曙の君」と二条の間には一子があった。→【とはずがたり(1)後深草院二条】)」の肝煎りで、善光寺詣でを口実に鎌倉をはじめとする諸国の検分に派遣された、一種の時事調査員であった、ということも考えられるかもしれない。(「廻国雑記」→【「えの木戸は さしはりてみす」】)
 
 僧や尼僧の旅日記は、西行(→【宿坊港湾都市(8)西行】や、阿仏尼(→【「名月記」】・【藤谷殿(とうこくどの)】・【浦島太郎の亀と道教神・玄武】)、芭蕉(→【東福寺と『次郎太郎入道堀籠』】・【大倉山で冬至に日の出を拝すること(2)】・【海岸沿いの『大きな格子状の水場』(3)仲木戸】・【「国破れて山河あり」】)など多くあるが、そうした私的な記録も、時にしかるべき権力によって国家や王朝の歴史に引用された。また或は、古人たちも「王朝に引用されることを望んで」、日々の記録を綴ったのかもしれない。
 
 歴史とは、為政者の手で「作成」され、記録・伝承されるものである。そして記録から零れ落ちた歴史は、文楽・能・狂言などを含む「歌謡」や「物語」(→【『本堺』(4)「鳥山八幡宮」】)のなかに掬われてゆく。さらにささやかな歴史の記憶は、「科学技術」(→【寺と地図(5)荘園図と行基海道図】・【測量マニア(1)陰陽道の方技】)や神社仏閣の「祭り」(→【中国・黄河と長江の古代文化】)に継承される。そしてもっと密やかな記憶は、風や雲や「富士の高峰の煙(→【宿坊港湾都市(8)西行】)」となり、空に還って霧散してゆく。
 風の音にふと、自分の中にあるはずもない太古の記憶が蘇るような気がするのは(→【国誉め】)、こうした人たちのあえかな声が、私たちに何かを語ろうとしているからではないだろうか。
by jmpostjp | 2009-09-16 14:46 | Trackback | Comments(0)


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