前項の「とはずがたり(巻四・八五~小町殿)」によれば、後深草院二条が鎌倉を訪れた正応二年(1289年)、鎌倉幕府の重要儀式である「鶴岡八幡宮放生会」は、「新八幡」で行われたことがわかる。「極楽寺」には(おそらくは本寺以外に)「新造山庄」があったことは【とはずがたり(2) 化粧坂】で述べたが、どうやら「鶴岡八幡宮」にも「新」と「旧」があったようだ。(そしておもしろいことに、「鶴見寺尾図」にも『八幡宮』と「加筆された(→【くり返し使用される絵図】)」場所がある→【『ミチA』(5)『八幡宮』】)
正応二年(1289年)といえば、源頼朝が鎌倉に幕府を開いてより、既に100年が経過している。まして1279年には、中国大陸で宋王朝(北宋960年-南宋1127年-1279年)がモンゴルによって滅ぼされるという政治・経済・外交上の一大転換があった(→【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】)。日本列島においても都市整備・法制度・建造物のどれをとっても、かつてと同じ、という訳にはいかなかったであろう。寺社とて、それは同じである。 ここで、「鶴岡八幡宮」に関する記述を時系列に取り出してみよう。 ●康平六年(1063年)、源頼義が鎌倉の「由比郷鶴岡」に京都の岩清水八幡宮護国寺を勧請し、永保元年(1081年)に八幡太郎義家(→【鶴見寺尾図の用水路(13)「浦島丘」・「白幡」の地名の由来】)が修復を加えたものを、治承四年(1180年)十月十二日に源頼朝が「小林郷北山」に遷して、若宮大路や源平池を造営。これが鎌倉において、源氏の氏神としてのみならず、武家の守護神として広く尊崇される「鶴岡八幡宮」の起源となる。 ●治承四年(1180年)十月七日、鎌倉入りの翌日、頼朝は「鶴岡八幡宮」を遥拝し、亡父(源義朝)ゆかりの「亀谷」の旧跡を臨検、そこに御亭を建てようとしたが、地形が狭く、また岡崎四郎義實が寺堂を建立していたために、取り止め(→【「亀谷」(1)寿福寺と福寿寺】)。つまり頼朝がこのとき「遥拝した」のは、いわゆる「本(元)八幡宮」のほう、ということになる。 ●1180年から1183年10月17日までの3年間、源義経が鎌倉に寄宿。「大蔵幕府跡(頼朝が「鶴岡八幡宮」の東に置いた鎌倉幕府政庁の中心地)」あたりの館に住んでいた、との伝承がある(→【宿坊港湾都市(9)源義経】)。 ●1186年、西行が砂金勧請で奥州へ行く途中、「鶴岡八幡宮」で源頼朝に出会う(→【宿坊港湾都市(8)西行】)。 ●建久二年(1191年)三月四日の大火で焼失した八幡宮を、社殿を「大臣山の中腹」に移して造営し、上宮・下宮(若宮)を整え、十一月二十一日、新たに石清水八幡宮を勧請して鶴岡八幡宮を創建。 ●建久三年(1192年)九月、武蔵国太知波奈郡鈴木村の鎮守として、「鶴岡八幡宮」より勧請された「鶴崎八幡」が、「同村字会下谷」に鎮斉される(「篠原八幡神社」の由緒→【『祖師堂』(1)二転三転】)。 ●建久五年(1194年)十二月、安達盛長が「鶴岡八幡宮」の造営奉行となる(→【霜月騒動(4) 安達氏と寺社】)。 (源頼朝は、1189年に奥州藤原氏を討滅し、1192年に征夷大将軍に任ぜられ、1199年に死去。) ●承元二年(1208年)、神宮寺が創建され、神仏習合の寺社となる。 ●1219年(建保七年~四月十二日改元~承久元年)一月二十七日、源実朝が「鶴岡八幡宮」を拝賀の際、甥の公暁により殺される(→【「亀谷」(2)乙姫の墓】)。 1221年「承久の乱」 ●承久の乱(1221年)の頃、現在の横浜市鶴見周辺は「鶴見郷」或は「大山郷」と呼ばれ、「鶴見郷」は「鶴岡八幡宮」の社領であり、安達義景の別荘があった(→【神奈川の地名(2)武家と貴族の輪舞】)。 ●貞応二年(1223年)四月、白河の隠士が鎌倉へ到着、「①腰越→②稲村→③湯井濱→④御霊の鳥居→⑤若宮大路(鶴岡八幡宮への参道)→⑥宿」の順路を歩く(→【寺と地図(11)海道記】・【寺と地図(12)「腰越→稲村→湯井濱→御霊の鳥居→若宮大路」】)。 ●宝治元年(1247年)六月二十七日に鶴岡別当に補任された隆弁が、七月四日、別当坊に移る。 ●建長三年(1251年)十一月十五日、八幡宮大菩薩の御影を別当坊に祀る。この御影については、元亨元年(1321年)八月二十五日付の「廻御影縁起(みえいまわりえんぎ)(「神道大系」神社編鶴岡)」に、正嘉年中(1257年-1258年)に八幡宮に遷し奉った、とある(貫達人著「鶴岡八幡宮寺-鎌倉の廃寺」)。 ●建長四年(1252年)正月十一日、「鶴岡若宮」の御供飯・餅などに異変あり。また若宮と舞殿をむすぶ樋に一羽の鶴が死んでいるのがみつかる。 ●建長四年(1252年) 四月十四日、宗尊親王が鶴岡八幡宮に初参詣(→【「亀谷」(7)二条/飛鳥井/教定の亭】)。八月一日、宗尊親王は鶴岡参詣の予定を、体調不良により中止(→【聖福寺殿~鶴岡八幡宮別当・隆弁】)。十二月十七日、病後新亭に移った宗尊親王が、新亭より鶴岡に初参詣(御所新造のための方違え→【亀谷(8)三浦時連と安達泰盛】)。 ●建長五年(1253年)正月二十一日、宗尊親王が鶴岡に参詣。このときの供奉人の人選は、親王の意向に沿って行われたが、人選担当者である小侍所別当・北条実時(→【「亀谷」(3)亀谷殿】)を差し置いておこなわれたようで、佐々木泰綱(→【検非違使(2)祖父「定綱」・父「信綱」・息子「泰綱」の場合】)らが参加することを実時は知らなかったという。 ●建長五年二月三十日、鶴岡の桜が盛りというので、宗尊親王は急遽、夜桜見物に出かける。五月二十三日、鶴岡の社殿が破損。修理のため、仮殿の事始をおこなう。六月二日、仮殿上棟立柱。六月八日に仮殿遷宮の予定であったが(「吾妻鏡」)、六月三日に安達義景が亡くなったために「三十日延引」され、七月六日、仮殿遷宮がおこなわれる(社務記録」)。七月八日、来る八月の放生会に宗尊親王が参詣されるというので、供奉人を布衣・直垂帯剣・随兵の3種にわけて催促。八月十四日、修理終了、上下宮とも正殿に遷す。またこのとき、はじめて西門脇に三郎大明神を勧請(北条時頼が参詣して神楽を奏したというから、時頼の発願か)。この年の八月十五日の放生会は、宗尊親王が征夷大将軍となってより初めて参詣するものだったが、供奉人のうち名越時章らは所労で不参加(→【霜月騒動(3) 安達泰盛と北条時頼】)。 ●建長六年(1254年)正月二十八日、隆弁が「鶴岡八幡宮」の御正体や正宝などを「聖福寺新熊野」に移す(→【聖福寺殿~鶴岡八幡宮別当・隆弁】)。 ●康元元年(1256年)正月十一日、将軍(宗尊親王)年始の鶴岡参詣。三月九日、仁王会。八月十五日の放生会に将軍参拝。十六日の流鏑馬にも将軍臨席。この頃になると、将軍の鶴岡参拝は、正月と八月ぐらいとなるが、毎度供奉人の名簿をつくり、将軍が選定して点を加えるので、点にもれた、もれないで、御家人が大騒ぎをするようなる。それだけ鶴岡参詣は晴れの場と考えられたのであろうが、敬神崇祖の精神は衰弱し、儀式は形骸化していったようだ。 ●正嘉元年(1257年)閏三月十八日、北条時頼が鶴岡で金泥大般若経を供養(「社務記録」・「社務職次第」)。さらに時頼の発願で今後は毎年大仁王会をおこなうことが決まる(「社務次第」)。七月十三日、浜の大鳥居のあたりで、寛喜三年(1231年)六月の例に倣い「風伯祭」をおこなう。天文博士・安倍為親が束帯姿で奉仕。天下豊稔の祈祷という。(安倍為親は後の1261年、宗尊親王の病脳に際し、道教の祭祀である泰山府君祭を勤める。cf.兼道の「山ノ内」の家と陰陽師・安倍晴明の護符→【「亀谷」(1)寿福寺と福寿寺】) ●正嘉元年五月・八月・十一月と巨大地震が三度も鎌倉を襲う。八月二十三日の「吾妻鏡鏡」には「戊の刻、大地震あり。神社仏閣一宇として全きものなし。」とあるが、鶴岡以下、鎌倉の社寺に関する記述はない。 ●正嘉二年(1258年)正月十七日、安達泰盛の甘縄の屋敷が火事。「寿福寺」の惣門・仏殿・庫裏・方丈以下郭内は全焼、「若宮宝蔵」・「鶴岡別当坊」なども延焼。正月二十二日、若宮御影堂と雪下別当坊などを上棟。二月八日、若宮御影御正体などを遷坐。そして五月十四日の「吾妻鏡」に、「又鶴岡寳藏 造畢之間 今日被奉納神寳〈云云〉」とある(鶴岡宝藏が竣工するまでの間、神宝が奉納される、という意味か?)。十二月九日、「鶴岡八幡宮」で諸神供養の音楽を修する。 ●弘長元年(1261年)正月七日、宗尊親王が「鶴岡八幡宮」を参詣。二月七日、前年三月に結婚した御息所(近衛宰子。父は近衛兼経、母は九条道家の娘・仁子。北条時頼の養女。)がはじめて鶴岡を参詣。このときの供奉人は京風の浄衣(白い狩衣→【とはずがたり(2) 化粧坂】)で務める。(四月二十四日、極楽寺新造山庄で笠懸。)八月十三日、鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬の供奉人着座の場所を定める。放生会では、随兵は従前通り西の廻廊の東方にひかえ、狩衣の者は東の廻廊に着座。流鏑馬では、随兵は西側の埒門(らちもん)の南左右にひかえる。東の座席は腋門(わきもん)の前から東方に布衣の人少々、その東に先陣の随兵の席、西は廻廊より西方に布衣の人少々、その西方に後陣の随兵の席とする。これも京風ということか。八月十四日、放生会の件で沙汰あり。將軍が決めた座席順を評定が変えてしまう。八月十五日、御息所は舞楽を観覧のため、輿で鶴岡にお渡り。その後、宗尊親王も御出まし。 ●文永二年(1265年)三月三日、鶴岡八幡宮で年中行事の法会がおこなわれ、そのときの童舞を御所の「鞠の坪」(蹴鞠をする庭→【番外:「洛中洛外図屏風・飛鳥井邸」】で再演させる。土御門大納言通行・花山院大納言通雅たちは御簾の中で、公卿で従二位の紙屋河顕氏、従三位の坊門基輔の2人と殿上人6人らは出居(でい:寝殿造りで寝殿の東北または西北の渡殿に設けた部屋)で観覧。この晴れの舞台で、近衛将監(このえしょうげん)中原光氏が巧みに舞い、また賀殿の曲を奏したとして、褒美の禄を与えられた。(中原光氏:1218年-1290年。建長五年八月十四日に神楽宮人となり、文永三年九月二十九日、木造裸形の弁財天坐像を鶴岡の舞楽院に安置。cf.中原親能→【「亀谷」(1)寿福寺と福寿寺】) ●文永二年(1265年)三月七日から7日間、御息所が鶴岡に参籠することになり、これに先だち、隆弁が60人余の大工をあつめて、一ヶ月のうちに下宮の廻廊を区切って、御息所の御局・御寝所・御念誦所・女房三人の局・台所・湯殿を造営する。三月九日には下宮で管弦講と神楽、十一日には上宮で法華経供養。十三日、隆弁はこれらの功により、砂金十両などを与えられる。 ●文永二年八月十五日、放生会。宗尊親王は御息所懐妊により参拝せず、奉幣使も出さずに、すべてを宮寺に任せた。十六日の流鏑馬にも親王は参拝せず、密かに執権・時宗の桟敷で見物。「吾妻鏡」によれば、親王は建長五年以後、病気であった文応元年(1260年)を除き、正月と八月の鶴岡参詣を欠かしていない。 ●文永三年(1266年)七月四日、宗尊親王は京都に更迭されることになり、佐介にある北条時盛入道勝円の亭に行く途中、「赤橋」の前で「鶴岡」を望み、和歌を詠じた。このときに詠まれた歌はわかっていない。以下は「増鏡」にみえる宗尊親王の歌である。 虎とのみもちゐられしはむかしにて いまは鼠のあなう世の中 なをたのむ北野の雪の朝ぼらけ あとなきことにうづもるゝ身は ●文永六年(1269年)二月十六日、幕府は八幡宮の谷々に在家人が居住することを禁じる(「神田孝平氏所蔵文書」)。谷々とはいわゆる二十五坊の谷のことか。僧俗混在を禁じたことは、鶴岡の環境が整備されたことを示す、と貫達人氏の「鶴岡八幡宮寺 鎌倉の廃寺」にはある。 1279年「南宋滅亡」 ●弘安三年(1280年)十月二十八日、鎌倉で大火。中下馬橋から火が起き、神宮寺と千体堂が焼失。十一月十四日、「鶴岡八幡宮」の上宮・末社・楼門・八足門・廻廊・脇門・鐘楼・竈神殿・五大堂・北斗堂・中鳥居が焼失。「社務記録」には上下宮の御正体は御殿司であった宝蔵坊の頼澄が取出し、別当坊の御影堂に遷すとある(が、「遷宮記」には異説もあり)。翌十五日、仮殿造立の沙汰あり。二十七日、仮殿上棟。二十九日竣工。十二月二日、掃除、仮神輿三基作成。十二月三日、上下の神殿内陣を洗い清め、隆弁の代理として佐々目法印・頼助が真言呪を唱えながら、散杖で如持香水をまいて、結界。仮殿へ移る際の道順は、「別当坊」から「岩屋堂の辻」まで南行、「辻」から「若宮小路」を東行、「赤橋」から境内に入り、「馬場」から「仮殿」までは筵道(えんどう:貴人が通行の際、裾が汚れないように、門から母屋まで通路に筵を敷く)をしいた、という。 ●弘安四年(1281年)二月七日、鶴岡八幡宮正殿の造営開始。造営奉行は安達泰盛(→【霜月騒動(4) 安達氏と寺社】)。この年、二度目の元寇がある。建治元年(1275年)九月に、元使・杜世忠ら5人を鎌倉「竜ノ口」で斬った北条時宗は、次の元寇があることを覚悟していたとされる。五月二十一日、高麗軍などの東路軍2万5千の兵が対馬を侵し、ついで七月、10万の江南軍も東路軍と合流し、二十七日、肥前国(長崎県)鷹の島に寄航するが、閏七月一日の大暴風雨で元軍は潰滅。このとき鎌倉では八幡宮が再建中であったためであろうか、異国降伏の祈祷は幕府小御所で、四月二十日夜から二十六日まで如法尊勝法を頼助がおこなっている(明王院文書「異国降伏御祈祷記」・「市史」史料編一ノ六二六・「弘安四年異国御祈祷記」続群書類従二六上)。また閏七月三日から下宮下経所で、異国降伏の祈祷をした。文永十一年と同じく、不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉の五壇法で、結願の十三日に元軍覆没の早馬が鎌倉に着く。八月十四日、遷宮を予定していたが、八月九日に時宗の弟・宗政が死去したために延期となり、十一月二十九日、別当隆弁が御正体をあつかって、復興した神殿に遷宮がおこなわれた。行列・奏楽などは、仮殿のときより一層荘重であったという。 ●弘安六年(1283年)八月十五日、鶴岡八幡宮別当・隆弁が76歳で入滅。 ●弘安八年(1285年)、安達氏滅亡(→【霜月騒動(11) 執権の執事vs 将軍の家人】) ●正応二年(1289年)八月十五日の放生会の日、後深草院二条は鎌倉「新八幡」の「赤橋」で、将軍・惟康親王が御車から降りる様子に憤慨する(→【前項】)。 *参考文献:貫 達人著「鶴岡八幡宮寺 鎌倉の廃寺」有隣新書 平成8年
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