文永十一年(1274年)と弘安四年(1281年)の2度にわたる蒙古(元朝)の侵攻事件を、「元寇」、「蒙古襲来」、「文永・弘安の役」などと称するが、当時はこれを「文永・弘安の異国合戦」と呼んでいた。
蒙古は、文永十一年(1274年)になって突然日本に侵攻したわけではなく、これ以前より、幾度も日本と国書を交わそうと試みていた。蒙古(1206年-1368年。中国風の国号「元」は1271年に制定。)は、その整備された軍制と、モンゴル・中国全土・朝鮮半島・チベット・東ヨーロッパを含む広大な交易圏の支配によって興隆した王朝だが、例えば「元史日本伝」によれば、1266年、既に服属していた高麗を通じて、日本へ通商交渉の使者を送ろうとしたという。しかしこのときは、蒙古の使節が海を渡ることの困難を理由に引き返し、世祖(フビライ)に日本への通使の不要を説いた、とされている。 が、フビライは日本との接触をあきらめず、1268年、今度はかつて高麗国王の側近を務めた起居舎人の潘阜を、使者として大宰府に送りこむ。そして武藤資能が「蒙古国書(日本側では「牒状(公文書の意)」と記録。)」と「高麗王書状」を受け取り、鎌倉幕府へ送達したが、これも不首尾に終わり、同年、再度使節が日本へ上陸するも、やはり幕府によって黙殺された。 この頃、鎌倉では5代執権・北条時頼(→【霜月騒動(3)安達泰盛と北条時頼】)が没し、その嫡男・時宗が若年であっため、傍系の6代執権・北条長時と7代執権・北条政村が政務にあたり、これを連署の時宗らが補佐するという体制を敷いていたから、中国大陸に勃興した帝国といかに国交を持つべきか、判断するだけの余力がなかったのかもしれない。加えて言えば、「国交」は「国王」の権限だから、幕府執権はその任になく、将軍は傀儡であり、さらに皇統も分裂していた(鎌倉時代の通商・交通権は名目上、西国は天皇、東国は将軍が掌握。)。 そこでこの危機に際し、1268年3月、時宗(1251年安達氏の甘縄邸で生まれ、1257年7歳で元服の際は泰盛が烏帽子親を務め、1261年11歳のときに泰盛の異母妹・覚山尼=堀内殿を正室として迎える。→【霜月騒動(3)安達泰盛と北条時頼】)を18歳で8代執権に就任させると、幕府は関東申次の西園寺実氏(亀山天皇の母は、実氏の娘・姞子。→【海岸沿いの『大きな格子状の水場』(4)青木城】)に託して蒙古国書を朝廷へと回送する。が、朝廷も黙殺を決定し、諸国へ異国警護や異国降伏の祈祷を行わせた(→【鶴見寺尾図の用水路(12)笠のぎ稲荷】)。 1271年9月、今度は元使・趙良弼らが、元への服属を命じる国書を携えて来日。幕府はこれを朝廷に進上すると、朝廷は伊勢に勅使を派遣して、異国降伏を祈った。そして幕府と朝廷はともに論議の結果、またしても国書の黙殺を決定する。 そして同年9月12日、かつて幕府に「立正安国論」を上程した日蓮が国難を主張すると、藤沢の龍口刑場で処刑されることとなったが(「龍ノ口法難」)、寸でのところでこれを免れ、10月に佐渡へ流罪とされた(→【『ミチCの終点』(3)日蓮の通ったミチ】)。 フビライは、その後も日本に使者を出し続けたが、これらも全て無視され、ついに武力侵攻を決定する。 「元史高麗伝」よれば、日本侵攻について、当初3案が検討されたという(→ウィキペディア「元寇」)。 ①島国である日本は攻略が難しいため、高麗に兵を置き、国書によって属国とする。この案では損害もなく、また高麗の統治強化や南宋と日本の分断も可能となる。 ②まず南宋を攻略し、服属させた漢人を使役して日本を攻略する。この案では多数の兵力を準備することが可能とあって、蒙人高官の支持があった。 ③高麗軍を使って東路より日本を攻略する。この案では兵力不足が懸念された。 結果、フビライは高麗に命じて、日本侵攻のための艦船を作らせ、食糧などを供給した。この時の造船費用は高麗が負担し、大小900艘もの船を半年の突貫工事で完成させたという。(造船→【勧進上人】) こうした大陸の動向を知った幕府は、1272年(文永八年)、九州(鎮西)に所領を持つ御家人を北九州沿岸部に下向させると異国防衛の任につかせ(異国警固番役のはじまり。東国文化が九州に伝播する契機となる。)、鎮西奉行(→【官家(みやけ)と大宰府】)の武藤氏(少弐氏)や大友氏に指揮を命じた。 「元史高麗伝」の記録を見ると、当時の日本と南宋には、非常に強い結びつきがあったことがわかる。そう、平安時代は平氏が日宋貿易で莫大な富をなし、中世の鎌倉には、僧侶をはじめ多くの中国人が集住し(→【「犯土」のタブーを越える人たち】・【蘭渓道隆】)、市場では宋銭を使って商取引が行われていたのだ(→【全真教と元の免税特権】・【「えの木戸は さしはりてみす」】・【中世鎌倉の市場と北宋の市易法】・【市をめぐる誇大妄想(12)魏⇔帯方郡⇔伊都国 ⇔邪馬壹国】)。 また幕府・朝廷・寺社のそれぞれが、おそらくはその支配下にある海上交易商人などを通じて、大陸の時事動向に関する情報収集を行っていたことも伺える。 にもかかわらず、為政者たちは効果的な対策を打ち出さず、ただ事態を傍観し、個人的な利害調整に走り、祈祷を行うとことに始終した。日本はこの時も今も、そしておそらくはそれ以前もこれからも、「物事を分析して、具体的な行動に移す」ことが苦手な国であり、「ゆく河の流れ(方丈記→【寺と地図(11)海道記】・【市をめぐる誇大妄想(18)平群郡額田部】)」をに身を任せることを好む国なのかもしれない。 しかし外交はムードや成り行きではなく、「儀礼」と「理論」と「行動」の積み重ねである。1274年、元の遠征軍は遂に博多に上陸する。
by jmpostjp
| 2009-05-22 12:13
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