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寺と地図 (3)「鶴見寺尾図」の古墳時代

 「日本書紀」に、667年に行なわれた斉明天皇葬儀の際、天智天皇が「以後は古墳の石槨(せっかく:石材で作った柩や副葬品を納める室)造営の役を召集しない」と宣言した、とあることは前項に記した。
 その後、日本で始めて火葬が行なわれたのは700(文武4)年で、それは653年に遣唐使として入唐し、玄奘に学んだ学問僧・道昭の葬儀においてであるとされる。続く702年には、持統天皇が天皇として初めて火葬され、銀製の蔵骨器に納められたという。
 また、723年に死去した「古事記」の編者・太安万侶(おおのやすまろ→【市をめぐる誇大妄想(6) 記紀神話】)の火葬墓は、1979年、奈良県磯城郡の茶畑で、墓誌とともに発見されている。

 天皇・貴族・僧侶たちの間で火葬が始められると、この風習は次第に各地に広がってゆく。 多摩川と鶴見川に挟まれた横浜市北部と川崎市(絵図では『門前寺内四十九院』・『外門前』の北側にあたる)は、関東地方でも火葬墓が密集する地域であるが、ここでは平安時代初期に、既に火葬があったようだ。
 火葬骨は、多くが「蔵骨器」と呼ばれる土師器の甕に納められ、村はずれに埋められたが、その容器には須恵器を利用したものや、甕や坏を組み合わせたものもあり、また副葬品として鉄製の刀子(小刀)・銭などが納められたものもある。
 火葬には、長時間にわたる高温で強い火力が必要だ。よってそれは、従来の製鉄における発火技術と、舶来のハイテクを駆使した「非常に高度で高価な埋葬法」であったに違いなく、「埋葬」に関わる人々は、当時の先端技術集団であったともいえる。
 鶴見川周辺の被葬者は、ムラの長や役人であったとされるが、どのような人物が火葬されたにせよ、当時の横浜市周辺に、そのような先端技術集団と、それを庇護することのできる富裕層が、多く暮らしていたことが伺える。

 さて、この頃を境に「前時代の遺物」となった「古墳(土師氏→【鶴見寺尾図の用水路(8)雨乞い神事と相撲節会】・ヤマトタケル→【六角橋(ろっかくばし)】)」だが、「鶴見寺尾図」の域内と周辺に残る古墳時代の遺構を探してみると、やはり多くが「鶴見寺尾図」の定点に重なっている(→【鶴見寺尾図のミチを辿って】)。
 「鶴見寺尾図」の域内と周辺に残る古墳時代の遺構は、以下の通りである。
 
 鶴見川以北では
●『外門前(現・新羽丘陵公園ほか)』(→【新羽の「亀山」と『外門前』】)
 「新羽大竹遺跡(港北区新羽町)」に古墳時代の住居跡など。
●『外門前(現・港北区新羽町)』の北北西と西
 400年頃の「西の谷貝塚(港北区南山田町)」と「東原遺跡(都筑区折本町)」
 清水場遺跡(都筑区佐江戸町)
●『門前寺内四十九院(現・綱島公園ほか)』(→【鶴見川の流路(1)金蔵寺】)
 「綱島古墳」(港北区綱島台2702・綱島公園内)は、5世紀末につくられた馬蹄形状の円墳。
 600年頃の「中里遺跡(港北区新吉田町)」
●『門前寺内四十九院(現・綱島公園ほか)』の北(→【鶴見川の流路(1)金蔵寺】)
 600年頃の「森戸原遺跡(港北区日吉本町)」
 「日吉の丘公園」の「箕輪洞谷横穴墓群(港北区箕輪町3丁目)」には、9基の横穴墓(7世紀中頃から終わり頃)。
 
 鶴見川以南では
●『ミチの分岐点0(現・大口台)』(→【大口台小学校と神ノ木公園(『白幡宮』】)
 300年頃のムラ跡。
●『馬喰田(現・岸根公園ほか)』(→【『馬喰田』と伯楽と白楽と】)
 350年頃の山王山古墳(港北区岸根町)。 山王山遺跡群(岸根町・篠原町・錦が丘)には縄文時代の遺跡も点在する。
●『泉池(現・三ッ池公園』北側の『田(鶴見区駒岡町)』(→【鶴見川の流路(2)まむし谷】・→【太田道灌の「兜塚伝説」】)
 「伊勢山神社」には、4世紀頃の「瓢箪山古墳(通称「お穴さま」)」
 「兜塚・ふれあい樹林」には、兜形の円墳(通称「太田道灌の兜塚」) 
 (→「鶴見歴史の会」が語る鶴見の歴史(第24回)」
●『七曲舊池(現・二ツ池)』
 500年頃の二ツ池遺跡(港北区獅子ヶ谷町)  
●『八幡宮(現・真福寺・宝蔵院・愛宕神社)』南
 諏訪坂公園内に保存の「諏訪坂前方後円墳」(→「鶴見区の概況・歴史(1)」)には、石棺の中に直刀や鉄製武具が副葬されていた。

 海沿いでは
●『白幡宮』横の『(一番下)松の木』(→【大口台小学校と神ノ木公園(『白幡宮』)】)
 「神の木台遺跡」には、縄文時代の貝塚群と縄文時代早期・弥生時代後期のムラ跡、のほか、「富士塚古墳」と呼ばれる古墳時代中頃(約1550年前)の墳墓。
●『稲荷 堀』北の『本堺堀』と『ミチC』に挟まれた位置(→【「三ツ沢貝塚」と縄文の大規模集落】)
 7世紀前半の「軽井沢古墳」は、横浜市では古墳時代最末期の前方後円墳のひとつ。全長26.5m、高さ2.3m。後円部の径は9.5m、高さは2.5mで、3段の墳丘を持つ。
●『稲荷 堀』の西~帷子川×今井川(→【「えの木戸は さしはりてみす」】)
 「今井砦跡・城山稲荷(保土ヶ谷区今井町)」周辺には、縄文・弥生時代の住居跡や古墳が集中。

 「鶴見寺尾図の鶴見川以南・以東」で現在の鶴見川以北では(→【鶴見川の流路(1)(5)】)
●『阿弥陀堂(川崎市幸区南加瀬)』(→【「加瀬山」の変遷】)
 「夢見ヶ崎公園」西側のアパート付近にも戦前まで古墳があったが、東芝堀川町工場建設の際に消失。
●「観音松古墳跡」(日吉3丁目:慶応大学~矢上小学校構内)は、全長72mの前方後円墳で、南関東における最古の古墳の一つとされるが、現在は学校となり湮滅。
●「日吉矢上古墳」は、直径25m・高さ4mの円墳で、内部は粘土床。埋蔵品に、銅鏡2面・各種玉類1,700点 余・鉄剣1口分・竹櫛1枚などがあり、昭和15年に国宝に指定され、のち昭和28年には重要文化財に指定変更される。
●「加瀬台古墳群」(川崎市幸区北加瀬)には、「白山古墳」と「第六天古墳」が続いていたが、これも現在は湮滅。白山古墳は全長87メートルの前方後円墳。後円部の木炭槨から京都・椿井大塚山古墳と同笵の「三角縁神獣鏡」が出土。副葬品に内行花文鏡・碧玉製紡錘車・銅鏃・直刀・鉄斧頭・玉類がある。築造時期は4世紀後半と見られ、これも南関東最古の古墳の一つ(→【鶴見川の流路(2)まむし谷】)。
(またこの地では、12世紀のものとされる秋草文の骨臓器(現・国宝指定)も出土。→【太田道灌の「兜塚伝説」】)。

 さらに、多摩川と鶴見川に挟まれた堆積平野に、「富士見台古墳」(川崎市高津区子母口富士見台)があり(これは『仏殿地(現・大倉山公園)』の真北に位置するが)、子母口の「橘樹神社」の伝承では、これを弟橘媛の御陵としている。付近には大和朝廷の「橘樹郡衙跡」もある(→【舟のミチと「弟橘姫」】)。

*参考資料:横浜市三殿台考古館報no.13「大昔の横浜」より「横浜市内の古墳時代主要遺跡」   
by jmpostjp | 2008-10-12 13:07 | Trackback | Comments(0)


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