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市をめぐる誇大妄想 (25)越道君(こしのみちのきみ)

 「日本書紀」で飛鳥時代を辿ると、当時の朝鮮半島と朝廷の都(倭・大和)の間で、思いのほか頻繁に人の往来があったことがわかる。そしてそのルートには、
①越(能登半島・越前・若狭)~近江(琵琶湖沿岸)~山背(京都府東南部。山城・山代とも。)~大和を通る「日本列島南北縦断ルート(後の鯖街道)」と、
②筑紫(九州)~瀬戸内海~難波(大阪)~大和を通る「列島東西横断ルート(瀬戸内ルート)」の2種類があったようだ。

 前項に記した志貴皇子の母は、「越道君伊羅都女(こしのみちのきみのいらつめ)」だが、この「越道君」は、現・石川県加賀市大聖寺川付近を往時に支配した地方豪族である。
 古代交通路の要衝を押さえる一族の娘が、天智天皇の宮室に入ったことは、同じく交通の要衝である近江の鏡王の娘「額田王」が天武天皇と天智天皇に仕えたことに、よく似ている。(「最短国際交通路」→【市をめぐる誇大妄想(18)平群郡額田部】)
 
 そしてこの「越道君」と「列島南北縦断ルート」について、天智天皇の即位から遡ること1世紀の、欽明天皇31年(570年)に、面白い記録があるので紹介しよう。
●欽明天皇31年(570年)、夏4月2日。天皇は、泊瀬柴籬宮(はつせのしばかきのみや・現奈良県桜井市初瀬。)にお出かけになった。
 越の人・江渟臣裾代(えぬのおみのもしろ)が京に詣で、奏上していわく「高麗の使者が暴風雨のため港が分からなくなり、漂流してやっとのことで海岸に着きましたが、郡司はこれを報告せず隠しているので、私がお知らせに参りました」と。
 天皇は「自分は皇位について若干年だが、高麗人が航路に迷い、初めて(越の)浜に到着し、漂流に苦しみながらもその命をとりとめた。これは我が政治が広く行き渡り、徳がさかんで、仁に通じ、大恩が果てしないことを示すものではあるまいか。有司(つかさ・朝廷の官僚)は、山背国の相楽郡(さがら・現京都府相良郡山城町)に館(むろつみ)を建て、厚く助けて養生させるように。」と仰せになった。
 原文は「夏四月甲申朔乙酉 幸泊瀬柴籬宮 越人江渟臣裾代詣京奏曰 高麗使人 辛苦風浪 迷失浦津 任水漂流 忽到着岸 郡司隠匿 故臣顕奏 詔曰 朕承帝業 若干年 高麗迷路 始到越岸 雖苦漂溺 尚全性命 豈非徽猷広被 至徳魏魏 仁化傍通 洪恩蕩蕩者哉 有司宜於山背国相楽郡 起館浄治 厚相資養」。

●欽明天皇31年(570年)4月、この月、天皇は泊瀬柴籬宮より(磯城島金刺宮へ)輿に乗って帰朝され、東漢氏直糠児と葛城直難波を遣わし、高麗の使者を迎えられた。
 原文は「是月 乗輿至自泊瀬柴籬宮 遣東漢氏直糠児 葛城直難波 迎召高麗使人」

●欽明天皇31年(570年)5月、天皇は膳臣傾子(かしわでのおみ・かたぶこ)を越に遣わし、高麗の使者をもてなされた。高麗の大使は、この時になって膳臣が天皇の正式な使者であることを知った。
 そこで高麗大使は道君(みちのきみ)に、「あなたは天皇ではないと、私が疑っていた通りであった。あなたが膳臣に伏拝(→【市をめぐる誇大妄想(10) 国々に市あり】)したことで、あなたが百姓(おおみたから)であることがわかった。私を騙して、調(みつぎ)を徴収し、それを自分のものにするとは。速やかにそれを返還し、虚飾は述べずに頂きたい」と言った。
 膳臣はこれを聞き、その調を探して返還させ、このことを京に戻って報告した。
 原文は「五月 遣膳臣傾子於越 饗高麗使 (傾子此云舸陀部古)大使審知膳臣是皇華使 乃謂道君曰 汝非天皇 果如我疑 汝既伏拝膳臣 倍復足知百姓 而前詐余 取調入己 宜速還之 莫煩飾語 膳臣聞之 使人探索其調 具為与之 還京復命」

●欽明天皇31年(570年)秋7月1日、高麗使が近江に到着。
 原文は「秋七月壬子朔 高麗使到于近江」。

●欽明天皇31年(570年)七月、この月、天皇は許勢臣猿と吉士赤鳩(きしのあかはと)を遣わし、(大阪の)難波津から船を佐々波山(さざなみやま。滋賀県大津市の逢坂山のこと。)へ引き上げて、船飾りをつけ、近江の北山で使者をお迎えになった。
 そして船を水路沿いに(京都の)山背にある「高楲館(こまひのむろつみ)」まで引き入れると、東漢坂上直子麻呂と錦部首大石(にしこりのおびとおおいし)を守護として派遣し、再度、高麗の使者を(京都府相楽郡南山城の)「相楽(さがら)の館」でもてなされた。
 原文は「是月 遣許勢臣猿与吉士赤鳩 発自難波津 控引船於狭狭波山 而装飾船 乃徃迎於近江北山 遂引入山背高威館 則遣東漢坂上直子麻呂 錦部首大石 以為守護 更饗高麗使者於相楽館」。

●翌年の欽明天皇31年(571年)春3月5日、天皇は坂田耳子郎君(さかたのみみこいらつきみ)を使者として新羅に遣わし、任那の滅んだいきさつを問われた。
 原文は「春三月戊申朔壬子 遣坂田耳子郎君 使於新羅 問任那滅由」。(欽明天皇の時代、朝鮮半島では伽耶国が高麗・百済に併合された後、562年に滅亡。任那も6世紀半頃までに百済・新羅に併合されている。)


追記:高麗人をもてなすための「館」が建てられた山背国相良郡は、のちの奈良時代に聖武天皇が藤原広嗣の乱に際し、一時的に平城宮を離れて恭仁宮(くにのみや)を置いた場所。この恭仁宮跡が国分寺・国分尼寺となった(→【『本堺』(3)三者会談】コメント部分・→【『ミチCの終点』(6)古代官道と高速道路)】・→【番外:「東大寺」の寺名】・→【巨大な『寺』(1)秘密の御殿】)。
 各国に置かれた国分寺・国分尼寺跡の調査によると、寺域は国の規模により異なるが、多くは「金光明四天王護国之寺」と呼ばれて、四天王寺方式の伽藍配置を採用していた。しかし相模国、下総国では法隆寺方式の配置も見られる。
by jmpostjp | 2008-08-26 12:20 | Trackback | Comments(0)


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