「日本書紀」で飛鳥時代を辿ると、当時の朝鮮半島と朝廷の都(倭・大和)の間で、思いのほか頻繁に人の往来があったことがわかる。そしてそのルートには、
①越(能登半島・越前・若狭)~近江(琵琶湖沿岸)~山背(京都府東南部。山城・山代とも。)~大和を通る「日本列島南北縦断ルート(後の鯖街道)」と、 ②筑紫(九州)~瀬戸内海~難波(大阪)~大和を通る「列島東西横断ルート(瀬戸内ルート)」の2種類があったようだ。 前項に記した志貴皇子の母は、「越道君伊羅都女(こしのみちのきみのいらつめ)」だが、この「越道君」は、現・石川県加賀市大聖寺川付近を往時に支配した地方豪族である。 古代交通路の要衝を押さえる一族の娘が、天智天皇の宮室に入ったことは、同じく交通の要衝である近江の鏡王の娘「額田王」が天武天皇と天智天皇に仕えたことに、よく似ている。(「最短国際交通路」→【市をめぐる誇大妄想(18)平群郡額田部】) そしてこの「越道君」と「列島南北縦断ルート」について、天智天皇の即位から遡ること1世紀の、欽明天皇31年(570年)に、面白い記録があるので紹介しよう。 ●欽明天皇31年(570年)、夏4月2日。天皇は、泊瀬柴籬宮(はつせのしばかきのみや・現奈良県桜井市初瀬。)にお出かけになった。 越の人・江渟臣裾代(えぬのおみのもしろ)が京に詣で、奏上していわく「高麗の使者が暴風雨のため港が分からなくなり、漂流してやっとのことで海岸に着きましたが、郡司はこれを報告せず隠しているので、私がお知らせに参りました」と。 天皇は「自分は皇位について若干年だが、高麗人が航路に迷い、初めて(越の)浜に到着し、漂流に苦しみながらもその命をとりとめた。これは我が政治が広く行き渡り、徳がさかんで、仁に通じ、大恩が果てしないことを示すものではあるまいか。有司(つかさ・朝廷の官僚)は、山背国の相楽郡(さがら・現京都府相良郡山城町)に館(むろつみ)を建て、厚く助けて養生させるように。」と仰せになった。 原文は「夏四月甲申朔乙酉 幸泊瀬柴籬宮 越人江渟臣裾代詣京奏曰 高麗使人 辛苦風浪 迷失浦津 任水漂流 忽到着岸 郡司隠匿 故臣顕奏 詔曰 朕承帝業 若干年 高麗迷路 始到越岸 雖苦漂溺 尚全性命 豈非徽猷広被 至徳魏魏 仁化傍通 洪恩蕩蕩者哉 有司宜於山背国相楽郡 起館浄治 厚相資養」。 ●欽明天皇31年(570年)4月、この月、天皇は泊瀬柴籬宮より(磯城島金刺宮へ)輿に乗って帰朝され、東漢氏直糠児と葛城直難波を遣わし、高麗の使者を迎えられた。 原文は「是月 乗輿至自泊瀬柴籬宮 遣東漢氏直糠児 葛城直難波 迎召高麗使人」 ●欽明天皇31年(570年)5月、天皇は膳臣傾子(かしわでのおみ・かたぶこ)を越に遣わし、高麗の使者をもてなされた。高麗の大使は、この時になって膳臣が天皇の正式な使者であることを知った。 そこで高麗大使は道君(みちのきみ)に、「あなたは天皇ではないと、私が疑っていた通りであった。あなたが膳臣に伏拝(→【市をめぐる誇大妄想(10) 国々に市あり】)したことで、あなたが百姓(おおみたから)であることがわかった。私を騙して、調(みつぎ)を徴収し、それを自分のものにするとは。速やかにそれを返還し、虚飾は述べずに頂きたい」と言った。 膳臣はこれを聞き、その調を探して返還させ、このことを京に戻って報告した。 原文は「五月 遣膳臣傾子於越 饗高麗使 (傾子此云舸陀部古)大使審知膳臣是皇華使 乃謂道君曰 汝非天皇 果如我疑 汝既伏拝膳臣 倍復足知百姓 而前詐余 取調入己 宜速還之 莫煩飾語 膳臣聞之 使人探索其調 具為与之 還京復命」 ●欽明天皇31年(570年)秋7月1日、高麗使が近江に到着。 原文は「秋七月壬子朔 高麗使到于近江」。 ●欽明天皇31年(570年)七月、この月、天皇は許勢臣猿と吉士赤鳩(きしのあかはと)を遣わし、(大阪の)難波津から船を佐々波山(さざなみやま。滋賀県大津市の逢坂山のこと。)へ引き上げて、船飾りをつけ、近江の北山で使者をお迎えになった。 そして船を水路沿いに(京都の)山背にある「高楲館(こまひのむろつみ)」まで引き入れると、東漢坂上直子麻呂と錦部首大石(にしこりのおびとおおいし)を守護として派遣し、再度、高麗の使者を(京都府相楽郡南山城の)「相楽(さがら)の館」でもてなされた。 原文は「是月 遣許勢臣猿与吉士赤鳩 発自難波津 控引船於狭狭波山 而装飾船 乃徃迎於近江北山 遂引入山背高威館 則遣東漢坂上直子麻呂 錦部首大石 以為守護 更饗高麗使者於相楽館」。 ●翌年の欽明天皇31年(571年)春3月5日、天皇は坂田耳子郎君(さかたのみみこいらつきみ)を使者として新羅に遣わし、任那の滅んだいきさつを問われた。 原文は「春三月戊申朔壬子 遣坂田耳子郎君 使於新羅 問任那滅由」。(欽明天皇の時代、朝鮮半島では伽耶国が高麗・百済に併合された後、562年に滅亡。任那も6世紀半頃までに百済・新羅に併合されている。) 追記:高麗人をもてなすための「館」が建てられた山背国相良郡は、のちの奈良時代に聖武天皇が藤原広嗣の乱に際し、一時的に平城宮を離れて恭仁宮(くにのみや)を置いた場所。この恭仁宮跡が国分寺・国分尼寺となった(→【『本堺』(3)三者会談】コメント部分・→【『ミチCの終点』(6)古代官道と高速道路)】・→【番外:「東大寺」の寺名】・→【巨大な『寺』(1)秘密の御殿】)。 各国に置かれた国分寺・国分尼寺跡の調査によると、寺域は国の規模により異なるが、多くは「金光明四天王護国之寺」と呼ばれて、四天王寺方式の伽藍配置を採用していた。しかし相模国、下総国では法隆寺方式の配置も見られる。
by jmpostjp
| 2008-08-26 12:20
|
Trackback
|
Comments(0)
|
カテゴリ
以前の記事
2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||