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市をめぐる誇大妄想 (15)橘樹寺

 前項に記した推古天皇の時代、聖徳太子が開基となって建立したという寺に七ヶ寺があるが、そのひとつ「橘樹寺」(橘寺・橘尼寺。奈良県高市郡明日香村橘532。)は、正式名を「仏頭山上宮皇院菩提寺」といい、本尊を聖徳太子座像と如意輪観音とする天台宗の寺である。
 鎌倉期までは堂塔伽藍が揃っていたとされるが、その後衰退、現在の堂宇は1864年に再興されたもので、創建当初の面影は、現在の寺地で1953年-1957に発掘された「四天王寺式伽藍配置跡(東が正面)」にわずかに見ることができるのみだ(寺より出土の瓦には7世紀後半のものが多いが、7世紀前半のものとされる「素弁蓮華門軒丸瓦」も混じる)。

 橘寺(たちばなでら)の名称の由来は、「日本書紀」で、田道間守(たじまもり→【神奈川の地名(4)『師岡佮良但馬次郎』】)が海外から持ち帰った不老長寿の果実の種をこの地に蒔くと、橘(みかんの原種)が実ったことによるという。
 寺伝では、現在の「橘寺」位置には、もとは欽明天皇とその第四皇子(後の用明天皇)の離宮(橘宮)があったとされ、用明天皇の子・聖徳太子も572年にこの地で誕生し、斑鳩宮に遷るまでを過ごした、とされている。
 また推古天皇14年(606年)に、天皇の命で聖徳太子が勝鬘経(しょうまんきょう)を講義すると、庭に蓮の華が降り、太子の冠が光輝いたことから、天皇の命で太子が御殿(離宮)を改造し、橘樹寺(たちばなのきてら。橘寺は通称。)を建立した、とも伝えられる。

 橘寺については、万葉集(巻十六・三八二二)に、「橘寺之長屋尓吾率宿之童女波奈理波髪上都良武可(橘の寺の長屋に我が率寝し童女放髪は髪上げつらむか。たちばなの てらのながやに わがゐねし うなゐはなりは かみあげつらむか~橘寺の長屋で添い寝をした、まだ髪も結わない童女は、もう髪上げをする年頃になっただろうか。)」の歌があり、また日本書紀に、「天武天皇9年(680年)、尼房失火で十房を焼く。」との記述があることから、創建当初は尼寺であったと考えられている。

 「橘樹寺」を太子生誕の地(上宮・じょうぐう)だとする伝承については、日本書紀の「用明天皇が磐余双槻宮(いわれなみつきのみや)で即位した際、聖徳太子を慈しんで宮の南の上殿(かみつみや)に住まわせた」の記述に依拠するようだが、現在は、1984年より開始された「桜井南部特定区画整理事業」にともなう発掘調査で、「桜井商業高校(桜井市河西770)」東の住宅地に、その居館跡と見られる遺跡(6世紀後半~7世紀初頭)が発見されたことから、これを「上之宮庭園遺跡(うえのみやていえんいせき)」として整備している。

 ところで、「鶴見寺尾図」の域内と周辺は、かつて「武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)」と呼ばれていた(→【神奈川の地名(3)久良郡諸岡郷】)。そして、絵図中心の唐風の大きな『寺』位置の、現在の住所は「横浜市鶴見区上の宮(かみのみや)」で、宗泉寺には地形を生かした回遊式庭園がある(→【巨大な『寺』(1)秘密の御殿】)。
 また田道間守の「たじま」については、絵図に『師岡給主但馬次郎(新高島駅)』の表記があり(→【『神奈川の地名(4)『師岡佮良但馬次郎』)、『子の神』位置の師岡熊野八幡の伝承で、承安4年(1174年)に雨乞いの祈祷をした延朗上人も但州(兵庫県北部)養父郡の人である(→【鶴見寺尾図の用水路(8)雨乞い神事と相撲節会】)。
 さらに、「たんしゅう」を丹州(丹波~兵庫県中東部と京都府北西部)とするなら、『犬逐物原』位置に残る「神奈川の浦島太郎」の伝承で、太郎は丹後に出仕している(→【神奈川の浦島太郎伝説】・→【鶴見寺尾図の用水路(13)「浦島丘」・「白幡」の地名の由来】)。また『五郎三郎堀籠』位置の「白幡神社」の祭神・足利尊氏は、丹波篠村八幡宮で源氏再興を掲げて、建武新政の功臣となっている(→【白幡神社と『五郎三郎堀籠』(2)外洋船の港】)。
by jmpostjp | 2008-07-22 14:53 | Trackback | Comments(0)


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