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唐寺(とうでら)と開港地

 「媽祖堂」の置かれる長崎の唐寺「興福寺」のHPによれば、江戸時代、長崎へ来航する唐船には必ず「媽祖」が祀られていて、停泊中は媽祖を船から揚げ、唐寺の媽祖堂に安置した、とある。(媽祖は中国宋代の福建省に起こった土俗信仰が道教に取り込まれたものだが、元代にチンギス・ハンが交易拡大のため、「儒・仏・道」三教の調和を図る新道教「全真教」を擁護して免税特権を与えて以来、江南から北京へ糧米を運ぶ全ての船舶が、通行税や入港税の免税措置を求めて媽祖を祀った。)
 外洋航海は常に命の危険と隣りあわせだ。唐船では、航海の安全を願って守護神の「媽祖」を祀るとともに、香花を供する者や太鼓役までもが船に乗り込み、昼夜船上で媽祖に奉仕していた。 長崎に唐寺が建立されることになったのも、船が入港してから荷役を終えて出航するまでの間、大切な媽祖を安置して礼拝する場所が必要となり、媽祖堂を建てたのが始まりという。
 
 長崎「興福寺」の創建は1620年だが、そのすぐ後の1641年からは鎖国が始まる。鎖国はまず、キリスト教を禁止することから始められた。1587年(天承5年)、豊臣秀吉が伴天連(バテレン)追放令を出すと、1612年(慶長17年)に江戸幕府がキリスト教信仰の禁令を強化する。さらに1616年(元和2年)、ポルトガル・イギリスとの貿易を長崎の平戸に限定すると、新教と旧教の対立を利用しながらキリシタン弾圧を強め、1633年~39年までの5次にわたる条例で、①キリスト教の取り締まり②外国船貿易の統制③日本人の海外往来の禁止を決定。1639年(寛永16年)にはポルトガル船の来航を禁じて、1641年(寛永18年)にオランダ商館を平戸から長崎・出島に移し、鎖国体制を確立させた。
 以後、ペリー来航の1853年まで200年余にわたり、外国との交流は朝鮮・琉球との公的な通交と、中国・オランダとの公的な通商を除いて、一切が禁じられた。鎖国政策は、江戸幕府が禁教と貿易統制によって国家としての権力強化をねらったものだが、一方で東アジアの秩序安定と覇権維持を望む中国清朝や朝鮮王朝の海禁政策ともうまくリンクしていた(鎌倉末期~戦国時代にかけての中国・朝鮮は、「八幡船(はちまんせん・ばはんせん)」・「倭寇(わこう)」と呼ばれる超国籍連合の密貿易船に手を焼いていた。)。
 そして言うまでもなく、この政策により民間人の自由な通交や通商は著しく抑圧された。

 「興福寺のHP」によれば、鎖国時代、中国・オランダに対する唯一の開港地となった長崎では、市民が一丸となって貿易に従事した、と書かれている。また唐船の活躍で長崎は経済的に潤い、南京出身者を中心とする大船主や貿易商を檀家とした「興福寺」は最盛期を迎えて、大きな堂宇が建ち並び、僧俗男女が参集する禅の一大センターとなった、ともある。
 江戸時代、幕府の直轄地とされた長崎には、幕府が任命する「奉行」や「目付」などが置かれたが、貿易都市として外交・行政・通商を直接担当しながら実力を有したのは地元・長崎人であり、なかでも外交官的役割を担った「唐通事」・「阿蘭陀通詞」と呼ばれる職に、興福寺の有力檀家衆から出る人もいて、興福寺を支えた、ともある。「東福寺」への唐僧の渡来は1700年代中頃までになくなり、10代目以降は日本人住職が続いて、現在は32代になるそうだ。

 「鶴見寺尾図」が作成された頃、日本の通商・交易はどのように行なわれていたのだろう。
 894年に菅原道真が遣唐使を廃して以来、日本と海外の公式な往来はなく、交易はもっぱら私貿易に限られていた。960年、中国で汴京(べんけい:現・開封。1227年に臨安:現・杭州に遷都。)を首都として宋が起こると、日宋私貿易が盛んとなったが、これに携わったのは、海賊と呼ばれる人たちや、清原氏や藤原氏のような名家に庇護される人たち、そして平清盛のような政治家トップの保護を受ける人たちであった。
 しかし日宋貿易の一大パトロンである平氏が滅びゆく平安末期から鎌倉期には、1167年の重源、1168年の栄西、1171年の覚阿、1186年に再び栄西、1199年の俊芿(しゅんじょう)、1223年の道元、1235年の円爾と、僧侶の入宋と帰国がたて続く。(1246年に蘭渓道隆が来日。1279年に南宋滅亡。)
 そして鎌倉後期から南北朝期は、寺社造営料唐船(じしゃぞうえいりょうとうせん)という貿易船が、寺社造営費用の調達を名目として、朝廷・幕府の保護をうけ、中国・元朝に派遣された。寺社造営料唐船の経営主体は、おもに寺社・大名・幕府などであったが、実際の貿易実務には商人があたり、1325年の建長寺船、1342年の天竜寺船などが派遣された。これらが室町時代の勘合船(遣明船)の先駆となったといえる。

 海洋貿易の主体は、大雑把に言えば、奈良時代は大和朝廷、平安時代は有力貴族、鎌倉時代は寺院、鎌倉末~南北朝期は朝廷や幕府を冠する寺院であったようだ。そして室町時代の幕府による管理貿易を経て、江戸時代の鎖国へとむかう。
 つまり1334年の「鶴見寺尾図」以前、外洋貿易に携わる港には貿易を経営する寺社があり、大いに潤っていたことが考えられる。そしてその実務を請け負ったのは、地元の商人や寺社に属する人々だったのだろう。独占事業・寡占事業は必ず儲かる。監視する第三勢力がなければ尚更だ。その利権が、「鶴見寺尾図」が作成された頃、幕府や朝廷の手に移行したということになる。なるほど当時の「鶴見寺尾郷」は、得宗家の手になる「建長寺正統庵領」であった。(→【重要文化財「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」】・→【建長寺正統庵領鶴見寺尾郷】)

 「鶴見寺尾図」には『本境堀』の外側に沿って「神奈川湊」がある。この湊は水深が深く大型船の入港も可能だ。そして海は潮流も穏やかなうえ、三方を丘陵に囲まれて風の影響も受けにくい。(→【白幡神社と『五郎三郎堀籠』(2)外洋船の港】・→【舟のミチと「弟橘姫」】)
 この湊に沿って、西から東へ向かって『稲荷 堀(稲荷台小学校・願成寺)』・『師岡給主但馬次郎(帷子川)』・『一本木台(洲崎神社)』・『烏帽子形(浦島丘~旧・観福寿寺)』・『大堀口(新子安駅)』・『●●堀籠(大口駅)』・『性園堀籠(松蔭寺)』・『白幡宮(神ノ木公園)』・『五郎三郎堀籠(白幡神社)』・『次郎太郎入道堀籠(東福寺)』・『藤内堀籠(鶴見神社)』・『入江(八丁畷駅)』が並んでいる。(→【鶴見寺尾図のミチを辿って】)
 果たして、神奈川湊の経営主体は絵図中心の『寺』と記される『北向きで唐風の巨大な建物(現・上の宮)』で、実務を請け負ったのは『稲荷 堀』以下『藤内堀籠』までの位置にあった寺社なのだろうか。
by jmpostjp | 2008-05-30 15:51 | Trackback | Comments(0)


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