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神奈川の地名 (3)久良郡諸岡郷

 横浜は内東京湾に面した港街で、かつては相模国と武蔵国の境界に位置した。この辺りが古くから朝廷と関わりがあったことは「日本書紀」にも見られ、4世紀中頃に、武蔵国の豪族・千熊長彦がヤマト政権に服属し、神託によって朝鮮との外交折衝の使節に選ばれた、と記されている
 また5世紀初には、仁徳天皇が茨田(大阪市北部)の堤を築かせた際、武蔵の人・強頸(こわくび)が人柱になった、とも記されている。
 6世紀には、「日本書紀」の安閑元年(534年)閏12月の条に、武蔵国の国造(くにのみやつこ)家の相続者・笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が同族の小杵(をき)と国造の地位を争い、朝廷の力で小杵を滅ぼした謝礼に、武蔵国の「横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くらす)」4ケ所を朝廷に屯倉として献上したことが記されている。

 645年の大化の改新で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)を中心として、中臣鎌足(藤原鎌足)ら革新的な豪族が蘇我大臣(そがのおおおみ)を滅ぼすと、朝廷は中央集権的国家を目指して「国・郡・里制」をしき、国には中央からの国司を派遣した。 
 国司のトップは国守と呼ばれ、現在の知事の役割を担った。国の下には郡を置き、郡司は国造や地方豪族から選出した。各郡に設置された郡衙(ぐんが。「郡家(ぐうけ)」とも。)は朝廷の行政拠点となり、朝廷へ税として納付するための米や物資を貯蔵する正倉がおかれた。

 この頃、現在の横浜市は、西を相模国(鎌倉郡・高座郡)、東を武蔵国(都築郡・久良郡・橘樹郡)に属した。
 相模国の国衙(国府)は「大住郡」(平塚市・海老名市・小田原市の諸説がある。)に置かれ、鎌倉郡の郡衙は鎌倉市・御成小学校一帯、高座郡(こうざぐん)の郡衙は茅ヶ崎市・北陵高等学校一帯にあった。
 武蔵国の国衙は東京都府中市にあり、都築郡の郡衙は都筑区・長者原遺跡(ちょうじゃっぱらいせき)一帯、橘樹郡(たちばなぐん)の郡衙は川崎市高津区千年から影向寺(ようごうじ・宮前区)の一帯にあったが、久良郡の郡衙がどこかはわかっていない。

 川崎市の「文化財ニュース」によれば、1980年に影向寺・薬師堂西側で出土した文字瓦の表面に「无射志国荏原評(むさしのくにえばらのこおり)」の7文字が確認され、「評(こおり)」は、大宝元年(701年)に施行された大宝令以前の地方行政組織名(のちの「郡」)であることから、瓦の制作年代を国制の実施された665年前後から701年までとして、「影向寺」の創建時期も瓦の製作年代とほぼ同時期であろうと推測している。
 
 日本書紀で534年に朝廷の屯倉とされた倉樔郡は、「影向寺」が創建されたと推定される700年頃に久良(くら)郡と改称され、1500年頃には久良岐(くらき)郡とされた。
 久良郡の名は、「続日本紀」の神護景雲二年(768年)6月、「武蔵国橘樹郡の人・飛鳥部吉志五百国が、久良郡で白い雉を捕獲し、朝廷に献上した(武蔵国橘樹郡人飛鳥部吉志五百国於同国久良郡獲白雉献焉)。」や、藤原京(694年~710年)跡で発見された木簡にも見られる。

 久良郡(現・横浜市の臨海部)には、以下の八ヶ郷があったが、現在の地名との関係は確定できていない。
①鮎浦(ふくら)郷    六連→六面→六浦(金沢文庫)?
②大井(おおい)郷 
③服田(はとだ)郷 
④星川(ほしかわ)郷  星川付近
⑤郡家(ぐうけ)郷    (群衙のある場所)
⑥諸岡(もろおか)郷  (丘の多い場所) 港北区師岡付近?
⑦州名(すな)郷     (砂場)帷子川河口の野毛あたりか?
⑧良椅(よしはし)郷

 1334年の鶴見寺尾図にも、『師岡佮良但馬次郎』に「師岡(もろおか*「岡」の元字は「罒」の下に「正」)」の名が見えるが、この位置は、現・根岸線の横浜駅から桜木町駅にかけての海岸沿いにあたる。
 そして現在の港北区師岡(もろおか)町は、絵図の『子ノ神(師岡熊野神社)』から『寺(上の宮)』の北端にかけての地域で、鶴見川の南岸に位置している。

追補:(2022年7月29日平善之氏のコメントより一部抜粋)
金沢区編纂の「図説かなざわの歴史」54ページでは、六浦の古い地名(倭妙抄の郷名の記載)は鮎浦ではなく鮐浦としている。
鮎の字のつくり(右側)の書き順は縦棒-横棒-口の順。崩して書かれた場合縦棒は左には流れない。
鮐の字は、紙が古く書写が繰り返された場合、ムの点が消える可能性が有り、何よりも「ふく」と言う読みと整合がとれる。
なので鮎ではなく鮐が正しいのではないか。
 

by jmpostjp | 2007-11-02 21:50 | Trackback | Comments(2)
Commented by 平善之 at 2022-07-29 22:02 x
面白く拝見しました。
ただ中で一つ気になる部分が有りました。
金沢区が編纂した「図説かなざわの歴史」54ページでは六浦の古い地名(倭妙抄の郷名の記載)は鮎浦ではなく鮐浦としています。
鮎は「ふく」とは読みません。漢和辞典・国語辞典いずれにも有りません。

37ページは担当者の勘違いだと思われます。
37ページの中でも「問題だ(訓注と漢字が合わない)」としています。

鮎の字のつくり(右側)の書き順は縦棒-横棒-口の順番です。
つまり崩して書かれた場合縦棒は左には流れません。
鮐の字の場合は紙が古く書写が繰り返された場合、ムの点が消える可能性が有り、
何よりも「ふく」と言う読みと整合がとれます。
フグは昔は「ふく」と呼ばれており、西日本特に山口県ではいまでも「ふく」と呼びます。
なので鮎ではなく鮐が正しいのではないかと思います。
何かのおりに御検討いただければ幸いです。
Commented by jmpostjp at 2022-07-31 07:48
コメント、有難うございます。早速、本文に反映させて頂きました。
「鶴見寺尾図」を解読、夢想するにあたり、当方を大いに悩ませたのは毛筆による書写であった。ペンによる筆記はおろか、PCで文字を打つ時代、古来の記述法に対する素養がないことは、大きな足かせであった。平様の深い知見に敬意を表する次第です。
「師岡佮良但馬次郎」部分の「佮良」についても、「給主」と書かれている可能性をブログ中他項で記したが、多くの人の手により各々の詳細がゆっくりと解明されてゆくことで、古い時代の日本の姿が多角的に立ち現れることを希求している。


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