●金蔵院に隣接する熊野神社(神奈川区神奈川本町1-1)の主祭神は、国常立尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊の三柱で、その他にも天照大神・素戔嗚尊・大己貴命・少名彦名命などを合祀している。
社殿は幾度もの焼失と再建を繰り返すが、由緒や口碑には、明確な年月を示すものが多く、以下にその一部を抜粋する。 ①1087年(寛治元年)6月17日、醍醐寺三宝院の勝覚僧正が、紀伊国(和歌山県)牟呂郡熊野の熊野権現の神霊を分祀し、神奈川権現山(現・幸ヶ谷公園付近・洲崎神社の北側丘陵部)に社祠を創立、神奈川郷の総鎮守として熊野三社大権現と号した。 ②後三年の役(1083年-1087年)の際、源義家(八幡太郎義家)が参詣し、帰途再び当地に立ち寄って、この地を「幸ヶ谷」と名づけた。 ③1398年(応永5年)、山賊等により社祠を焼かれた。 ④1494年(明応3年)6月、上田蔵人が普請奉公となり、社殿を再建。 ⑤1510年(永正7年)6月20日、権現山の合戦で兵火に焼かれる。 ⑥1577年(天正5年)6月、別当・恵賢僧都らが社殿を再建。 ⑦1582年(天正10年)7月、徳川家康が北条氏を御坂黒駒で討ち取った際、別当が社前で加持祈祷を行う。これより徳川家との関係が深まり、別当の金蔵院に武州小机領神奈川郷に、朱印地(10石)を賜る。以後、江戸城に登城して、祈祷の宝徳(おふだ)を献上。 ⑧1712年(正徳2年)6月、権現山の山頂が崩壊したため、別当寺の金蔵院境内へ遷座。旧地には小祠を安置したが、社地(3反8畝10歩)は、明治4年に上地(没収)された。 ⑨1868年(慶応4年)1月7日、神奈川宿の大火で社伝を消失するも、逐時再建整備。明治17年に郷社となる。 ⑩昭和11年8月、鎮座850年祭を盛大に行う。 ⑪昭和20年5月29日、戦災により社殿を焼失。境内地を駐留軍に接収される。現在の社殿は昭和38年に完成されたもの。 もと熊野神社が置かれていた「権現山(現・幸ヶ谷公園)」は、JR東海道線の敷設により丘陵が分断されるまで、本覚寺のある高島台とひと続きの丘であった。そしてこの丘陵の東隣にも「宗興寺」の丘、西隣にも「三宝寺」の高台があり、これらがちょうど鶴見寺尾図の『大きな格子状の水場』の海岸線に一列に並んで、堤防のような格好を成している。 ●かつて「権現山(現・幸ヶ谷公園)とひと続きで、急峻な丘を形成していた「高島台」には、青木山延命院本覚寺(神奈川区高島台1-2)がある。 1872年に開通の東海道本線敷設工事で丘を掘削・分断したためか、近年になり、境内の北側が崩落し、鉄骨で地盤補強の足場を組む様子が国道一号線より伺える。 由緒に拠れば、寺は平安末期に築城の「旧青木城」の城跡に創設されたという。 ①寺は青木山延命院と号し、1226年に臨済宗の祖・栄西禅師によって開山されたと伝えられる。ただ、栄西は1215年に入滅しているので、由緒にも「栄西の遺徳を慕い開山したものだろう」と記されている。 栄西(えいさい・ようさい)は、1159年に比叡山で天台宗を学び、1168年・1187年の2度にわたって入宋、帰国翌年の建久3年(1192年)には、宋の「天童山・千仏閣」に修造用資材を輸出している。1194年より京都で禅を布教するが、比叡山衆徒の妨害にあい、翌年、博多に聖福寺(しょうふくじ)を建立。1198年には、九条兼実のために「興禅護国論」を著し、翌1199年に北条政子の帰依を受けると、1200年に鎌倉・寿福寺を建立した。1202年には台(天台)・蜜(真言)・禅の三宗兼学の建仁寺を京都に建立している。 ②1510年、上田蔵人入道の乱で兵禍をこうむり、荒廃する。 ③1532年、小机の雲松院三世・陽広元吉禅師を住職として迎え、曹洞宗の寺となる。 ④大永年間(1521~1528年)、後北条氏の支配下にあった小机城代・笠原越前守信為(雲松院開基)が、現・川崎市・横浜市一帯の領内に小机三十三カ所観音霊場を定め、子年のたびに巡拝して供養する。本覚寺は第七番札所となり、如意輪観音像を祀る。 ⑤1859年の横浜開港時には、アメリカ公使館が置かれた。 戦国時代の1504年に、この「旧青木城」位置で、上杉氏と後北条氏による「権現山の合戦」があったことが知られている。 北条早雲(後北条氏の祖)が当時の関東の支配者・上杉氏の家臣であった上田蔵人入道を味方に取り込み、権現山山上に砦を築かせた。上杉朝良ら2万の大軍が権現山を囲み、10日間にわたる合戦が行われ、上田勢が敗れたとされる。しかし1524年には青木城城主は、小田原北条氏の重臣・多米周防守(多米元興)に移っている。 多米氏は、1569年(永禄12年)に武田信玄が北条氏を攻めた際は、吉良氏の蒔田御所を守備し、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際は、北条氏政の命で上野国西牧を守備し、松平修理大夫に攻められ戦死している。 熊野神社や本覚寺の由緒から、「権現山」を巡っては、「熊野神社」が真言宗の支援をうけて上杉方や徳川方(源氏・馬のミチの棟梁)につき、「本覚寺」は禅宗の援助を受けて後北条方(平氏・舟のミチの棟梁)についていたことが伺える。 ところで「本覚寺地蔵堂の山」に築かれた戦国時代の青木城は、大永年間に後北条氏により、権現山城とともに一つの城郭として整備されたのではないかと考えられている。そしてこの権現山(幸ヶ谷公園)と本覚寺には、敷地内を東西に縦断するように道が一本通っており、これが「鶴見寺尾図」の『本堺堀』に重なっている。 おそらくは、平安末期、神奈川湊に開けた絵図の『大きな格子状の水場』を見下ろす高島台には「旧青木城」が置かれていたが、これが鎌倉期に「鶴見寺尾図」の領内に取り込まれると、元寇(1274年・1281年)の頃に、海の防衛線として海岸沿いに土塁が築かれ(1260年に日蓮宗浄瀧寺創建)、水場も湊から閉じたものになったのではないだろうか。 その後、各宗の寺家勢力が一斉に領地獲得を目指し、この海から閉じられた水場を干拓した(1293年~1299年に浄土宗成仏寺創建、1299年に古儀真言宗能満寺創建)。 そして鎌倉時代の土塁が、戦国時代(1500年頃)に再び城郭として整備された、という図が浮かんでくる。 海岸沿いの土塁で有名なものには、九州・博多湾に面する福岡市の東公園に、「元寇防塁」がある。1276年、鎌倉幕府は元軍の再来に備え、九州の諸大名に防塁の築造を命じ、僅か半年で今津から香椎までの20kmにわたる博多湾に土塁を築いたとされる。 この東公園には、元寇の際に亀山天皇(1249年ー1305年)が敵国降伏を祈願したという故事にちなみ、衣冠束帯姿の亀山上皇銅像がある。 亀山天皇の父は後嵯峨天皇で、母は西園寺実氏の娘・姞子(きつし)。1272年の後嵯峨天皇没後より親政を行い、1274年の譲位後も13年間の院政を敷いた。1283年には八条院領(鳥羽天皇皇女・八条院の広大な荘園群。順徳天皇→後鳥羽天皇→後高倉院→安嘉門院→亀山上皇の順に所有され、大徳寺統の重要な経済基盤となった。)を継承し、自系の皇統(大徳寺統・南朝)の基礎を固めたが、1287年に皇位が持明院統(北朝)に移ると、1289年に出家した。以後、朝廷は南北に分裂、政局や世相は混乱を極めた。
by jmpostjp
| 2007-10-16 12:05
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