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海岸沿いの『大きな格子状の水場』 (1)神奈川湊

 鶴見寺尾図の海岸沿いに『大きな格子状の水場(反町・青木町・幸ヶ谷ほか)』として描かれ、江戸時代には東海道が整備されたこの場所には、現在も多くの寺社や旧所名跡が残されている。なかでも有名なのが、東海道五十三次の宿場の一つ「神奈川宿」だ。

 日本橋から7里(約28km)の距離にあり、「品川宿」・「川崎宿」に続く東海道3番目の宿場町である「神奈川宿」は、往古より相模・多摩方面への物資・情報の要衝地として栄えた「神奈川湊(かながわみなと)」に面して、慶長6年(1603年)に設置された。
 江戸時代の「神奈川宿」は、滝野川の東側で、現・神奈川区神奈川本町付近にあった。隣接の京急・仲木戸駅付近には、徳川家康やその他将軍が、上洛の際や鹿狩りの際に宿泊施設として利用した「神奈川御殿」(17世紀半ばに廃止)もあったとされる。
 この「神奈川宿」の場所は、「鶴見寺尾図」では『大きな格子状の水場』沿岸部東端と『本境堀』が交差する部分で、『本堺堀』の内側にあたる位置に重なっている。

 武蔵国橘樹郡神奈川(現・横浜市神奈川区)にあった「神奈川湊」が記録に出現するのは、鎌倉時代中期の1266年、北条時宗の下文に「神奈河」と記されたことに始まるが、それ以前の古代より、六浦(むつうら・横浜市金沢区)・品川(東京都品川区)・富津(千葉県富津市)・木更津(同木更津市)などとともに、東京湾内海交通の拠点として、当地に湊が存在したことがわかっている。 
 「神奈川湊」とその湊町は、鎌倉時代には鶴岡八幡宮が支配し、室町時代には関東管領・上杉氏の領地となり、江戸時代の慶長6年(1601年)に「神奈川宿」が置かれると、江戸幕府の直轄地となって、神奈川陣屋が幕府の支配を代行した。

 幕末の安政 5年(1858年)、神奈川湊沖に碇泊中の「ポーハタン号」船上で、日米修好通商条約が締結された際には、米国が繁栄を謳歌する神奈川の開港を要求したが、幕府は外国人と日本人の衝突を避けるという理由で、寒村だった横浜村(中区関内から山下町にかけて)を神奈川に含め、実質的な「横浜開港」を「神奈川開港」として処理している。
 しかし欧米の領事館には、交通の利便性をはかって神奈川湊沿いの寺が使用され、オランダ領事館は「長延寺」(昭和40年に廃寺となった浄土真宗の寺。京急「神奈川新町駅」そば。現・神奈川通東公園位置)、フランス領事館は「慶運寺」(京急「仲木戸駅」の西300m)、フランス公使館は「甚行寺」(京急「神奈川駅」そば)、イギリス領事館は「浄滝寺」(京急「仲木戸駅」の東500m)、アメリカ領事館は「本覚寺」(京急「神奈川駅」そば)にそれぞれ置かれた。

 江戸時代の船着場は、洲崎大神(神奈川区青木町)から真南に伸びる参道が、現・国道1号線と交差するあたり(現・神奈川区栄町の埋立地)にあって、幕末に横浜が開港されると、ここから開港場と神奈川宿を結ぶ渡し舟が出入りした。
 横浜を開港して以後、商業の中心地も神奈川宿から横浜村に移り、周辺の埋め立てや開発が進むと、船着場もそれに合わせて南下し、現在は「横浜そごう」隣の金港町(きんこうちょう)から山下公園へシーバスが往復している。

 かつて神奈川湊の周辺には、北に生麦湊(現・鶴見区生麦)や新宿湊(川崎区本町)があり、南に戸部湊(西区戸部町)や野毛湊(中区野毛町)があったが、天然の良港を有する神奈川湊は、いつの世も海の向こうの金と権力を魅惑した。そしてひとたび権力の手中に落ちたと見えるや、今度はその束縛を振り払い、「国家」の領外の地となって、国法に拠らない自由な交易の拠点になろうとする。
 それはまるで豊満で魅力的なひとりの女が、男たちを争いに巻き込みながら誰の所有物にもならない姿に似て、どこか魔性を感じさせる。おそらくそれは地霊(大自然)の持つ力が見せる幻影なのだろう。豊穣と混沌に満ちた海に境界はなく、七つの海を制覇する王でさえ、その水を一時たりとも手中にとどめておくことはことはできない。
 
by jmpostjp | 2007-10-03 21:46 | Trackback | Comments(0)


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