人気ブログランキング | 話題のタグを見る

夢うつつ  (18)自治都市の商館⇒武士の別荘⇒王侯貴族の迎賓館⇒寺?

 2012年3月25日(日)の日本経済新聞40面文化欄に、西洋史家・樺山紘一氏の「欧人異聞」というコラムがある。以下はその抜粋である。

 ホテル王リッツの迎賓館

 1897年、ロンドンの街は、女王ヴィクトリアの即位60年の記念祭でわきたっていた。国王が在位60年をむかえるのは、イギリス史上、最初のこと。世界に君臨する大英帝国の繁栄をことほぐ、このチャンス。世界中から、王侯貴紳もつどい、社交が盛大にいとなまれた。ちなみに、それから115年たった今年、英国民は、ふたたび女王エリザベス2世の60年祭を祝う。おめでとう。
 さて、かの社交の席を提供したのは、旧来の宮廷ではなく、あらたに近代都市ロンドンやパリに出現しはじめた巨大な高級ホテル。大胆な設計によって、ホテルの概念を革新し、さらにはイギリスに本格的なフランス料理をもちこんで、ホテル晩餐の水準を一気に向上させた。その仕掛け人というべきは、マネージャーのセザール・リッツ、そしてレストラン・シェフのエスコフィエ。
 リッツは、スイスの田舎生まれ。苦労してホテル・マン修行をつみ、まずはモナコの高級ホテルで支配人の地位を獲得。ここで地歩をかためると、スイスでもマネージャーとしての地位をえて、野心をもりたてた。料理人エスコフィエの参加もえて、理想の実現へ。
 19世紀も末、もう貴族の邸宅での豪遊は時代遅れになっていた。けれども、それに代わる場が、市民社会にはない。この空白地帯をうめようとばかり、リッツの構想が翼をひろげた。広壮な客室は宮廷仕様のインテリア。食堂は、最高のフランス料理を提供。ダンスルームは、いやが上にも豪華。しかも、ホテルには休日がない。日曜日は、昼間からダンス・パーティと饗宴。リッツの目論見は、見事に当たった。
 度重なるトラブルもあったが、ヨーロッパの主要都市に、あいついで建設。どれも国を代表する迎賓館となった。「ホテル王」の賛辞がよせられる。
 それから1世紀。リッツの地位はもう独占をゆるされない。だが、ホテルの理想形ばかりは、なおもそこに健在である。

 「過去は現在よりも常に素朴である」という先入観を捨てるなら(→【前項】)、私たちは鎌倉時代の商業的発展を見くびるべきではない。商業が現在よりもずっと独占を許されていた時代なら、商業民の財力は今よりずっと大きなものであった可能性がある(→【中世の商業・金融ネットワーク(2)悪党】・【中世の商業・金融ネットワーク(10)おそれかしこみ】)。  

 「鶴見寺尾図」の周辺には、平安時代は「師岡保」とよばれる一種の自治都市があった(→【神奈川の地名(4)『師岡佮良但馬次郎』】・【師岡保】・【「王の庭」と自治都市】)。源頼朝の時代では、近隣の「金沢・榎戸・浦河」3湊(→【「えの木戸は さしはりてみす」】)の商業的繁栄の恩恵に浴した。また1241年には、鶴見に安達義景の別荘が置かれていた(→【神奈川の地名(2)武家と貴族の輪舞】)。
 そして鎌倉末期には、『仏殿地(→【鶴見寺尾図の『仏殿地』~大倉山】)』・『北向きの巨大な寺(→【巨大な『寺』(1)秘密の御殿】)』・『祖師堂(→【『祖師堂』(1)二転三転】)』・『正福寺・阿弥陀堂(→【『本堺』(8)『正福寺・阿弥陀堂』の東西南北】 )』・『馬喰田(→【『馬喰田』と伯楽と白楽と】)』・『犬逐物原(→【中世都市鎌倉と『犬逐物原』】)』・『八幡宮(→【『ミチA』(5)『八幡宮』】・【とはずがたり(4) 新八幡】) 』・『白幡宮(→【大口台小学校と神ノ木公園(『白幡宮』)】)』等を有する一大都市に成長し、南北朝時代の1334年に3分割されたが、1363年には17坊もの別当に勤仕される「法華寺」があった(→【『祖師堂』(2)天台宗・熊野山全寿院法華寺】)。

 こうした自治都市を母体とする商都には、おそらく古来より国内外の商人が集住する商館があったはずだ(→【番外:会寧(フェリョン)の馬市】)。だがそうした商館も、史書を歴史に残すような貴族や支配階級からは、「悪党(→【中世の商業・金融ネットワーク(2)悪党】)」の館」などと呼ばれたかもしれない。
 しかし、例えば中世の地中海におけるヴェネツィアやジェノヴァなどの商業網は(→【商業ギルド(2)マグリブの商人とジェノバの商人】)、こうした商館(fondaco[伊]=factory[英]=trading house[米])を基礎として形成されたものである。
 当時の商館は単なる宿泊施設ではなく、取引の統制に必要な司法権や行政権をもち、取引は現地人仲介人を介して行われることが一般的であった。のちにポルトガルがオランダや東インドや日本などに設置した商館も、これと同様の機能を有していた(→【夢うつつ(13)「鴻臚館」】)。

 もちろん今となっては、「鶴見寺尾」の地に商館があったかどうかを証明する術はないが(→【宿坊港湾都市(1)オトタチバナヒメたちの宿】・【宿坊港湾都市(2)将軍来臨】・【「舘」・「観」・「宮」・「殿」~道教寺院】)、1334年の「鶴見寺尾図」には『馬喰田』があるから、近隣に馬の去勢技術を有する渡来系の職人集団が集住したことは間違いない(杉山神社→【鶴見神社(3)杉山神社と遣唐使】・【鶴見寺尾図幻影(8)修験道】)。
 なぜなら、競走馬としての牡馬を家畜や軍馬として利用する場合、一般に気性を抑えて扱い易くするために去勢を行うが(騸馬:せんば)、日本にはこの去勢技術が明治時代になるまでほとんどなかったからだ。つまり鎌倉時代に『犬逐物原』で見出された野馬(競走馬)を(→【夢うつつ(9)福島県相馬地方の「野馬追(のまおい」と鶴見寺尾図の「犬逐(いぬおい)」)」】)、『馬喰田(→【『馬喰田』と伯楽と白楽と】)』で軍馬や家畜として商うにはどうしても去勢が必要だから、『馬喰田』の周辺にはそうした技術集団がいた。
 また或いは、当時の渡来人たちが去勢技術を独占するために、その技術を門(国)外不出としていて、日本列島で入手できる騸馬は全て輸入品によっていたなら、馬の独占輸入を行う渡来系商人とそれらを各地域で独占的に販売する地場の仲買人には、尚のこと巨万の富と利権があった(→【番外:「王子」、別荘でジェット・スキ‐に乗馬】)。
 どちらにしても『馬喰田』で馬を商う人々は、現代の電力会社と同じく独占企業としてたっぷり肥え太り(→【中世の商業・金融ネットワーク(2)悪党】)、為政者にも強い影響力を行使することができた(東京電力→【夢うつつ(8)殷と縄文と「鶴見寺尾図」】)。
 だからこそ、幕府は1251年に鎌倉市中の商人数を規制したのだ(→【商業ギルド(11)座】・【「亀谷」(5)町屋】)。しかし人々の欲望は、「法」などという紙切れでコントロールできる代物でない(→【商業ギルド (9)銭貨の運用停止と鎌倉幕府の成立】)。美しい鎌倉の御殿や寺社の装飾は多くの人の欲望をかき立て(→【とはずがたり(7) 平頼綱と北条貞時邸】)、やがて「みなが欲するものを売って儲けて何が悪い」という風潮が過熱すると、じわじわと人心を惑わせてゆく(→【夢うつつ(11)商都と無縁】)。

 そこへ1256年の大風、1257年の地震、1259年の飢饉である。そして元寇(1274年・1281年)を挟んで1280年に大火。さらに1293年の大地震、1302年の大火である(→【商業ギルド(8)天災と都市整備】)。
 こうした混乱期の1282年に「円覚寺(→【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】)」が、1285年に「東慶寺(→【『祖師堂』(3)鎌倉尼五山・第二位「東慶寺」】)」が建立された。円覚寺が元寇の犠牲者を敵味方なく弔うというのは、おそらくは地元商人や渡来系商人たちの悲願でもあり、また商業ルートの安定を早期に回復させる手段でもあっただろう。商人たちは寺の造営や安定運営に資金や技術の提供をおしまなかったはずだ。
 そして1284年、もともと北条氏の私寺として始まった円覚寺が、親王将軍の祈祷所とされると(→【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】)、これはまるで大宰府の鴻臚館(→【夢うつつ (13)「鴻臚館」】)の再来である。鎌倉商人たちは俄かに色めきたったに違いなかった。

 もう少し、妄想を続けよう。
 「円覚寺」が親王の祈祷所となれば、親王の接待宮が必要となる。街道を挟んだ「東慶寺」は、その立地と規模において最適だった(→【『仏殿地』と『北向きの巨大な寺』】)。だからこの2寺の往復路は、京風に条里制を模して飾られた(条里制→【鶴見寺尾図の用水路(2)条里制】)。接待宮には親王の後宮もあっただろう(→【宿坊港湾都市(4)宮将軍の後宮?】)。
 親王の御成りがあれば、付近の下級武士たちも動員され、にわか作りの盛装で、その場を盛り立てたかもしれない(子安足洗川・大口袴→【鶴見寺尾図の用水路(13)「浦島丘」・「白幡」の地名の由来】)。今や鎌倉武士や鎌倉商人は、幕府だけでなく宮家とも密な関係を築きはじめようとしていた。

 しかし1333年の戦禍によって、親王将軍が鎌倉で薨じると(→【中先代の乱(1)征夷大将軍・護良親王の死】・【中先代の乱(5)鶴見合戦ふたたび】)、後には接待宮と接待宮の職員、後宮の女性、そして親王の子女だけが残された(→【市をめぐる誇大妄想(23)逆縁の皇子】・【市をめぐる誇大妄想(24)皇宮流転】)。
 接待宮の造営は、地場の職人たちが丹精を込めて行ったものだ。接待宮の職員も京都から派遣された親王の女官などを除けば、多くは地元有力者の血縁である(ヒルトン小田原→【夢うつつ (13)「鴻臚館」】)。後宮の女性には冷泉為相の娘などもいたが(→【藤谷殿(とうこくどの)】)、ほとんどは近隣諸国の有力者たちの娘だ。まして年端のいかない子供たちもいる。
 
 戦乱を生き延びた地元住民たちは、この主を失った接待宮の扱いに当惑しながらも、古い奈良時代の歴史に倣い、接待宮を「法華寺」と名付けて、近隣寺院が輪番で寺に勤仕しながら残された婦女子の生活を担保することになったのではなかったか(→【市をめぐる誇大妄想(15)橘樹寺】・【市をめぐる誇大妄想(16)たちばな)】・【『祖師堂』(2)天台宗・熊野山全寿院法華寺】)。
by jmpostjp | 2012-03-31 18:17 | Trackback | Comments(0)


<< 夢うつつ  (19)親王将軍の墓 夢うつつ  (17)中世における贈与 >>