「鶴見寺尾図」の『正福寺(現・神奈川区菅田町位置)』と鎌倉の「永福寺」が、ともに東を正面に建てられているなど、いくつかの類似点があることは、【前項】に述べたが、それと同様に興味深いのは、絵図中心に描かれた『巨大な建造物(→【巨大な『寺』(1)秘密の御殿】・【『巨大な寺』(2)北向き】・【『巨大な寺』(3)北向観音(きたむきかんのん)】)』が、北向きに配置されていることである。
「鶴見寺尾図」の『北向きの巨大な建造物(現・鶴見区上の宮位置)』は、絵図に描かれる他の数多くの建造物と比べ、規模、意匠、垣をめぐらすなどの警備などの点で突出している。 この『寺』と墨書された建造物が北を正面とすることについては、鎌倉時代に舟の交通路であった「鶴見川(→【鶴見川の流路(1)金蔵寺】・【鶴見川の流路(2)まむし谷】・【鶴見川の流路(3)不自然な湾曲】)」と、それに併走する『橋(→【「太尾大橋」と「鶴見寺尾図の鶴見川に架かる橋」】』の架かった街道(鎌倉・下の道か?→【『巨大な寺』(2)北向き】)」が、ちょうど『寺』の北側にあることから、それらを庇護する格好に配された、と考えるのが最もシンプルだ。 しかし『仏殿地(現・港北区太尾町大倉山公園位置→【鶴見寺尾図の『仏殿地』~大倉山】)』との位置関係から見るなら、鎌倉・円覚寺と東慶寺の配置や(→【『祖師堂』(3)鎌倉尼五山・第二位「東慶寺」】)、さらにもうひとつの事例を連想してみることもできる。 「三国志」ファンの方ならご存知だろうが、紀元25年に中国の光武帝が漢王朝を再興して、「後漢」の都を洛陽に定めたとき、洛陽城は「北宮」と「南宮」の2大宮殿から構成されていた。そしてこの「北宮」と「南宮」は、子午線上に一直線に並んでいたわけではなく、「南宮」は「北宮」のやや東寄りに配され、華麗に整備された通路で繋がれていた。 「北宮」と「南宮」の役割は、時期によって変化したが、大抵は「北宮」に「朝廷(もとは貴人の廟堂を指したが、のちに政治を行う場を指すようになった。)」が置かれ、「南宮」に「太極殿(だいごくでん:宮都の正殿)」が置かれたから、「南宮」のほうに重心があったのだろう。また宮城の門外には、「霊台(天文台)」・「明堂(政堂)」・「太学(学問所→【建長寺正統庵領鶴見寺尾郷】)」が配されていた。 洛陽の都が置かれた河南の地は、古くから交通の要衝で、5-6000年前の新石器時代の遺跡が残るような場所である。 そういえば「鶴見寺尾図(→【鶴見寺尾図のミチを辿って】)」の域内と周辺もまた、水運(海・川)と陸運の結節点となる交通の要地であり(→【妙蓮寺~舟と馬のターミナル駅】)、また旧石器時代の遺構(→【『本堺』(7)『正福寺・阿弥陀堂』と神奈川区菅田町】や、貝塚や縄文の集落跡、弥生式住居跡、古墳などが残ることからわかるように(→【鶴見寺尾図の用水路(14)縄文から鎌倉まで】)、古来より連綿と人々の暮らしが営まれてきた場所であった。 そしてこの地を精密に測量したと考えられる「鶴見寺尾図(→【宋の測量技術・記里鼓(キリコ)と東海道】)」に記された『仏殿地』と『寺』が、洛陽の「北宮」と「南宮」と同じ配置で記され、『仏殿地』と『寺』を結ぶあたりでは、「条里制に則り、ハイカラに飾ったかのような」道路の痕跡まで残されている(→【宿坊港湾都市(4)宮将軍の後宮?】・【鶴見寺尾図の用水路(2)条里制】)。この類似は、果たして偶然なのだろうか?いったいこの『寺』は、誰の許可で、誰のために、誰の費用負担で、誰が造営した建物なのか。 「中世の鎌倉では、人口の約半数が中国人だったのでは」と、山田邦明氏が語られたように(→【「犯土」のタブーを越える人たち】)、またそれ以前でも、平安時代末期の「更級日記」に「相模国にもろこしが原があった」と記されるように(→【宿坊港湾都市(7)あずまこく】)、相模国と武蔵国の境界あたりには、大陸からの渡来人が長期間にわたって集住していたから、舶来の技術や文化を鎌倉あたりに集結させることは、それほど難しくはなかったはずだ。「誰が造営したのか」という問いには、「渡来系の技術者の指導で」というのが答えになるかもしれない。 さらに「鶴見寺尾図」に描かれるほどの大掛かりな工事が、鎌倉からそう遠くない鶴見の地で行われるからには、必ず幕府の容認(あるいは許可)があったと考えるのが妥当である。「誰の許可で」と言うなら、やはり「幕府の許可で」というのが妥当だろう。 ではいったい、この『寺』は「誰のために」造営されたのか。 【宿坊港湾都市(4)宮将軍の後宮?】の項で、宮将軍を鎌倉に迎えたとき、安達氏の別荘があった鶴見の地に「宮将軍」の離宮をしつらえたのではないかと想像したが、そうだとすれば、霜月騒動で安達氏が滅亡した後、安達氏の所領の多くは持ち主を失ったから、宮将軍もその機に乗じて、王宮の拡大を要求したかもしれない(→【霜月騒動(11) 執権の執事vs 将軍の家人】)。それというのも、「鶴見寺尾図」に描かれた絵は、王朝絵巻にみられる一種の鳥瞰図法に則っており、往時にそうした技法を有する絵師を動員できるのは、宮家かそれに準じる力を持った公卿以外にはありえなかった(→【関東申次と西園寺家】・【西園寺家の所領】・【中世の商業・金融ネットワーク(6)貨幣の力+神仏の力】。だからおそらく、「鶴見寺尾図」はそうした人物のために描かれた資料である、と考えることができる。「誰のために」という問いに、「宮将軍」のため、と想像してみたくなる所以である。 鎌倉時代、大陸からもたらされる合理的かつ科学的な最先端文化と、交易がもたらす莫大な富によって権勢を誇示する武家政権・鎌倉に、西国王朝は長く煮え湯を飲まされていた(→【とはずがたり(7)平頼綱と北条貞時邸】・【「えの木戸は さしはりてみす」】 )。だから元寇、南宋の滅亡、霜月騒動と立て続く動乱を機に、 西国王朝は得意の文化力を駆使して中国の古典「三国志」を研究し、より古い権威を引き合いにだして、武家政権に巻き返しを図ろうとしたのではないだろうか(→【とはずがたり(8) 乳母】・【とはずがたり(9)再び「おなじながれ」】・【とはずがたり(10) 久明親王の東下】)。「鶴見寺尾図」はそうした西国王朝の、鎌倉における拠点~『寺』を造営するための、一種の見取り図であったような気がしなくもない。 しかし時代は、そのような権力闘争と見栄の張合いとは別のところで、国境を越えた一大転換期を迎えていた。結局、日本列島の為政者たちは、小さな島国の利権争いに注力するばかりで、国際関係の荒波を乗り越えて、国を運営するという仕事を怠ったのだ(→【霜月騒動(5)「元寇」前夜】・【霜月騒動(8)南宋の滅亡と中国人僧】)。 そうして鎌倉幕府は滅亡し、人々の暮らしは大きな打撃を受け、戦乱の時代に突入してゆく。乱世とは、為政者の不徳によって引き起こされるものだろう。
by jmpostjp
| 2010-03-10 19:17
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