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2012年4月27日(金)付の日本経済新聞46面・社会欄に、「両陛下、火葬・合葬を希望」というタイトルの記事がある。
記事には「簡素化を検討 宮内庁がチーム(宮内庁→【夢うつつ(14)「正統(しょうとう)」】・【とはずがたり(1)後深草院二条】・【「増鏡」】)」と副題があり、さらに「解説」が付記されている。 以下はその「解説」の抜粋である。(本文は省略。*部は筆者による加筆。) 解説:「象徴とは」 考えた結論 古代の天皇は土葬だったが、仏教の影響で火葬が行われるようになった(*→【寺と地図(3)「鶴見寺尾図」の古墳時代】)。室町時代中期から17世紀半ばまでは火葬が定着。以後土葬に戻ったが、見かけ上火葬の儀式は残され、幕末の孝明天皇で廃止されるまで続いた。 江戸時代まで日本人の宗教観は神仏習合であり(*→【訂正:松蔭寺の白鳳金銅仏】・板碑→【鶴見寺尾図の用水路(12)笠のぎ稲荷】)、天皇家も神道式の祭祀(さいし)を行いながら、真言宗の檀家でもあった。京都市東山区の泉涌寺(*→【『祖師堂』(4)鎌倉仏教】・【寺と地図(7)忍性】)が菩提寺で、寺域内には多くの天皇の陵墓がある。 明治維新政府は天皇を機軸とする国家体制を作るため、神道を事実上国教化する国家神道政策をとった(*廃仏毀釈→【中先代の乱(3)東光寺・理智光寺】・【寺社と都市整備】・【「舘」・「観」・「宮」・「殿」~道教寺院」】・唐の廃仏【鶴見神社(2)「入唐求法巡礼行記」】)。このため天皇家の祭儀、葬儀から火葬も含めた仏教色は一掃された。また、天皇の権威を高めるため、旧皇室葬儀令では大掛かりな式次第が定められた。 戦後、天皇は日本国憲法で統治権者から国民統合の象徴となったが、祭祀や葬儀に関しては旧法の方式が踏襲された。現在の天皇陛下は明治憲法以前の天皇のあり方こそ本来の姿で、象徴天皇に近いと述べられている。葬法の変更も、象徴とは何かを考えられた末の結論だろう。 (編集委員 井上亮) 鎌倉幕府が倒れ、2度の「鶴見合戦」が起こった1333年と1335年、鎌倉で2人の親王将軍が薨じている(→【中先代の乱(1)征夷大将軍・護良親王の死】・【中先代の乱(3)東光寺・理智光寺】・【中先代の乱(5)鶴見合戦ふたたび】)。 2人の親王将軍は、果たして火葬されたのか、それとも土葬されたのか。 幕府滅亡の後、北条高時らが五月二十二日に自刃した日に、守邦親王(もりくにしんのう:正安三年〈1301年〉五月十二日 ~ 元弘三年〈1333年〉八月十六日)は将軍職を辞して、出家した。そして同年、鎌倉で薨じる。宗派はわからないが、親王はその死の直前に仏教に帰依した、ということになる。 また、「太平記(勿論、この作品は物語であり、すべてが史実に基づくわけではない。)」によれば、東光寺で最後を迎えた護良親王は、時を経て理智光院の長老により葬られた、と記されるから(→【中先代の乱(1)征夷大将軍・護良親王の死】・【中先代の乱(2)「太平記」・【中先代の乱(3)東光寺・理智光寺】)、やはり仏式で葬儀が営まれたと想像できる。 つまり両親王の葬送は、ともに仏式で行われた可能性が高い。だが、当時は神仏習合の時代であり、寺に「神式で」土葬されることがあってもおかしくはない。 また或いは、現在の日本ではすっかり馴染みがなくなってしまったが、道教式に土饅頭を造って祀られた可能性も否定できない。 なぜなら、「東光寺」・「理智光寺」・「鎌倉宮」の由緒に関わる月山友桂は、「全真教」を擁護する元朝に渡って1326年に清拙正澄(劉氏)とともに帰国した人物だが(→【建長寺船と海の交易権】・【全真教と元の免税特権】・【唐寺(とうでら)と開港地】・【「舘」・「観」・「宮」・「殿」~道教寺院」】)、その「月山」姓から北辰信仰を有する道教徒であった、と考えることもできるからだ(道教と北向きの寺→【『巨大な寺』(3)北向観音(きたむきかんのん)】・【『仏殿地』と『北向きの巨大な寺』】・【巨大な『寺』(1)秘密の御殿】・【『本堺』水路の掘削と犯土のタブー)】)。 ところで、親王殺害を画策したとされる足利氏だけでなく、室町時代以降、鎌倉殿をあずかる「鎌倉公方」として鎌倉入りした室町幕府の面々は、東勝寺で自害した北条氏をはじめとする800人以上の人々や(→【夢うつつ(12)地域の空洞化と鶴見合戦】)、東光寺で殺害された親王将軍(→【中先代の乱(2)「太平記」】・【中先代の乱(3)東光寺・理智光寺】)の「怨霊」を怖れることはなかったのだろうか。 かの源頼朝も、「保暦間記」に「(末弟の)源義経(→【宿坊港湾都市(9)源義経】・【宿坊港湾都市(11)山内荘腰越】)や安徳天皇(→【『ミチC』(8)「水天宮平沼神社」の祭神・安徳天皇】)らの亡霊を見て気を失い、病に倒れた」と記されるように、自らの宿業に悩まされた。 1335年に室町幕府が京都に置かれたのは、首府・鎌倉の凄惨な歴史に、為政者たち自らが加担してしまったことへの「怖れ」もあったかもしれない。武家の都として、また商都として繁栄を極めた鎌倉の地は、今や戦禍にまみれている。こうした大地の上で、鎌倉公方たちは果たして安穏と居を構え、日々をおくることができたのだろうか。
2012年3月25日(日)の日本経済新聞40面文化欄に、西洋史家・樺山紘一氏の「欧人異聞」というコラムがある。以下はその抜粋である。
ホテル王リッツの迎賓館 1897年、ロンドンの街は、女王ヴィクトリアの即位60年の記念祭でわきたっていた。国王が在位60年をむかえるのは、イギリス史上、最初のこと。世界に君臨する大英帝国の繁栄をことほぐ、このチャンス。世界中から、王侯貴紳もつどい、社交が盛大にいとなまれた。ちなみに、それから115年たった今年、英国民は、ふたたび女王エリザベス2世の60年祭を祝う。おめでとう。 さて、かの社交の席を提供したのは、旧来の宮廷ではなく、あらたに近代都市ロンドンやパリに出現しはじめた巨大な高級ホテル。大胆な設計によって、ホテルの概念を革新し、さらにはイギリスに本格的なフランス料理をもちこんで、ホテル晩餐の水準を一気に向上させた。その仕掛け人というべきは、マネージャーのセザール・リッツ、そしてレストラン・シェフのエスコフィエ。 リッツは、スイスの田舎生まれ。苦労してホテル・マン修行をつみ、まずはモナコの高級ホテルで支配人の地位を獲得。ここで地歩をかためると、スイスでもマネージャーとしての地位をえて、野心をもりたてた。料理人エスコフィエの参加もえて、理想の実現へ。 19世紀も末、もう貴族の邸宅での豪遊は時代遅れになっていた。けれども、それに代わる場が、市民社会にはない。この空白地帯をうめようとばかり、リッツの構想が翼をひろげた。広壮な客室は宮廷仕様のインテリア。食堂は、最高のフランス料理を提供。ダンスルームは、いやが上にも豪華。しかも、ホテルには休日がない。日曜日は、昼間からダンス・パーティと饗宴。リッツの目論見は、見事に当たった。 度重なるトラブルもあったが、ヨーロッパの主要都市に、あいついで建設。どれも国を代表する迎賓館となった。「ホテル王」の賛辞がよせられる。 それから1世紀。リッツの地位はもう独占をゆるされない。だが、ホテルの理想形ばかりは、なおもそこに健在である。 「過去は現在よりも常に素朴である」という先入観を捨てるなら(→【前項】)、私たちは鎌倉時代の商業的発展を見くびるべきではない。商業が現在よりもずっと独占を許されていた時代なら、商業民の財力は今よりずっと大きなものであった可能性がある(→【中世の商業・金融ネットワーク(2)悪党】・【中世の商業・金融ネットワーク(10)おそれかしこみ】)。 「鶴見寺尾図」の周辺には、平安時代は「師岡保」とよばれる一種の自治都市があった(→【神奈川の地名(4)『師岡佮良但馬次郎』】・【師岡保】・【「王の庭」と自治都市】)。源頼朝の時代では、近隣の「金沢・榎戸・浦河」3湊(→【「えの木戸は さしはりてみす」】)の商業的繁栄の恩恵に浴した。また1241年には、鶴見に安達義景の別荘が置かれていた(→【神奈川の地名(2)武家と貴族の輪舞】)。 そして鎌倉末期には、『仏殿地(→【鶴見寺尾図の『仏殿地』~大倉山】)』・『北向きの巨大な寺(→【巨大な『寺』(1)秘密の御殿】)』・『祖師堂(→【『祖師堂』(1)二転三転】)』・『正福寺・阿弥陀堂(→【『本堺』(8)『正福寺・阿弥陀堂』の東西南北】 )』・『馬喰田(→【『馬喰田』と伯楽と白楽と】)』・『犬逐物原(→【中世都市鎌倉と『犬逐物原』】)』・『八幡宮(→【『ミチA』(5)『八幡宮』】・【とはずがたり(4) 新八幡】) 』・『白幡宮(→【大口台小学校と神ノ木公園(『白幡宮』)】)』等を有する一大都市に成長し、南北朝時代の1334年に3分割されたが、1363年には17坊もの別当に勤仕される「法華寺」があった(→【『祖師堂』(2)天台宗・熊野山全寿院法華寺】)。 こうした自治都市を母体とする商都には、おそらく古来より国内外の商人が集住する商館があったはずだ(→【番外:会寧(フェリョン)の馬市】)。だがそうした商館も、史書を歴史に残すような貴族や支配階級からは、「悪党(→【中世の商業・金融ネットワーク(2)悪党】)」の館」などと呼ばれたかもしれない。 しかし、例えば中世の地中海におけるヴェネツィアやジェノヴァなどの商業網は(→【商業ギルド(2)マグリブの商人とジェノバの商人】)、こうした商館(fondaco[伊]=factory[英]=trading house[米])を基礎として形成されたものである。 当時の商館は単なる宿泊施設ではなく、取引の統制に必要な司法権や行政権をもち、取引は現地人仲介人を介して行われることが一般的であった。のちにポルトガルがオランダや東インドや日本などに設置した商館も、これと同様の機能を有していた(→【夢うつつ(13)「鴻臚館」】)。 もちろん今となっては、「鶴見寺尾」の地に商館があったかどうかを証明する術はないが(→【宿坊港湾都市(1)オトタチバナヒメたちの宿】・【宿坊港湾都市(2)将軍来臨】・【「舘」・「観」・「宮」・「殿」~道教寺院】)、1334年の「鶴見寺尾図」には『馬喰田』があるから、近隣に馬の去勢技術を有する渡来系の職人集団が集住したことは間違いない(杉山神社→【鶴見神社(3)杉山神社と遣唐使】・【鶴見寺尾図幻影(8)修験道】)。 なぜなら、競走馬としての牡馬を家畜や軍馬として利用する場合、一般に気性を抑えて扱い易くするために去勢を行うが(騸馬:せんば)、日本にはこの去勢技術が明治時代になるまでほとんどなかったからだ。つまり鎌倉時代に『犬逐物原』で見出された野馬(競走馬)を(→【夢うつつ(9)福島県相馬地方の「野馬追(のまおい」と鶴見寺尾図の「犬逐(いぬおい)」)」】)、『馬喰田(→【『馬喰田』と伯楽と白楽と】)』で軍馬や家畜として商うにはどうしても去勢が必要だから、『馬喰田』の周辺にはそうした技術集団がいた。 また或いは、当時の渡来人たちが去勢技術を独占するために、その技術を門(国)外不出としていて、日本列島で入手できる騸馬は全て輸入品によっていたなら、馬の独占輸入を行う渡来系商人とそれらを各地域で独占的に販売する地場の仲買人には、尚のこと巨万の富と利権があった(→【番外:「王子」、別荘でジェット・スキ‐に乗馬】)。 どちらにしても『馬喰田』で馬を商う人々は、現代の電力会社と同じく独占企業としてたっぷり肥え太り(→【中世の商業・金融ネットワーク(2)悪党】)、為政者にも強い影響力を行使することができた(東京電力→【夢うつつ(8)殷と縄文と「鶴見寺尾図」】)。 だからこそ、幕府は1251年に鎌倉市中の商人数を規制したのだ(→【商業ギルド(11)座】・【「亀谷」(5)町屋】)。しかし人々の欲望は、「法」などという紙切れでコントロールできる代物でない(→【商業ギルド (9)銭貨の運用停止と鎌倉幕府の成立】)。美しい鎌倉の御殿や寺社の装飾は多くの人の欲望をかき立て(→【とはずがたり(7) 平頼綱と北条貞時邸】)、やがて「みなが欲するものを売って儲けて何が悪い」という風潮が過熱すると、じわじわと人心を惑わせてゆく(→【夢うつつ(11)商都と無縁】)。 そこへ1256年の大風、1257年の地震、1259年の飢饉である。そして元寇(1274年・1281年)を挟んで1280年に大火。さらに1293年の大地震、1302年の大火である(→【商業ギルド(8)天災と都市整備】)。 こうした混乱期の1282年に「円覚寺(→【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】)」が、1285年に「東慶寺(→【『祖師堂』(3)鎌倉尼五山・第二位「東慶寺」】)」が建立された。円覚寺が元寇の犠牲者を敵味方なく弔うというのは、おそらくは地元商人や渡来系商人たちの悲願でもあり、また商業ルートの安定を早期に回復させる手段でもあっただろう。商人たちは寺の造営や安定運営に資金や技術の提供をおしまなかったはずだ。 そして1284年、もともと北条氏の私寺として始まった円覚寺が、親王将軍の祈祷所とされると(→【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】)、これはまるで大宰府の鴻臚館(→【夢うつつ (13)「鴻臚館」】)の再来である。鎌倉商人たちは俄かに色めきたったに違いなかった。 もう少し、妄想を続けよう。 「円覚寺」が親王の祈祷所となれば、親王の接待宮が必要となる。街道を挟んだ「東慶寺」は、その立地と規模において最適だった(→【『仏殿地』と『北向きの巨大な寺』】)。だからこの2寺の往復路は、京風に条里制を模して飾られた(条里制→【鶴見寺尾図の用水路(2)条里制】)。接待宮には親王の後宮もあっただろう(→【宿坊港湾都市(4)宮将軍の後宮?】)。 親王の御成りがあれば、付近の下級武士たちも動員され、にわか作りの盛装で、その場を盛り立てたかもしれない(子安足洗川・大口袴→【鶴見寺尾図の用水路(13)「浦島丘」・「白幡」の地名の由来】)。今や鎌倉武士や鎌倉商人は、幕府だけでなく宮家とも密な関係を築きはじめようとしていた。 しかし1333年の戦禍によって、親王将軍が鎌倉で薨じると(→【中先代の乱(1)征夷大将軍・護良親王の死】・【中先代の乱(5)鶴見合戦ふたたび】)、後には接待宮と接待宮の職員、後宮の女性、そして親王の子女だけが残された(→【市をめぐる誇大妄想(23)逆縁の皇子】・【市をめぐる誇大妄想(24)皇宮流転】)。 接待宮の造営は、地場の職人たちが丹精を込めて行ったものだ。接待宮の職員も京都から派遣された親王の女官などを除けば、多くは地元有力者の血縁である(ヒルトン小田原→【夢うつつ (13)「鴻臚館」】)。後宮の女性には冷泉為相の娘などもいたが(→【藤谷殿(とうこくどの)】)、ほとんどは近隣諸国の有力者たちの娘だ。まして年端のいかない子供たちもいる。 戦乱を生き延びた地元住民たちは、この主を失った接待宮の扱いに当惑しながらも、古い奈良時代の歴史に倣い、接待宮を「法華寺」と名付けて、近隣寺院が輪番で寺に勤仕しながら残された婦女子の生活を担保することになったのではなかったか(→【市をめぐる誇大妄想(15)橘樹寺】・【市をめぐる誇大妄想(16)たちばな)】・【『祖師堂』(2)天台宗・熊野山全寿院法華寺】)。
「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」は、建武元年(1334年)五月十二日に既存の『ミチ』を境界として、建長寺塔頭正統庵領であった一つの領地を『末吉領主三嶋東大夫』・『寺尾地頭阿波国守護小笠原蔵人太郎入道』・『子安郷(子ノ神?)』の三者で『押領』した際の領地境界線図であるという(→【重要文化財「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」】)。
絵図には寺社や細かな地形が整然と記され、無駄のない合理的な作図がなされている(→【くり返し使用される絵図】)。この絵図を現在の横浜市神奈川区・鶴見川以南の港北区・鶴見区の地図に重ねると、地形や寺社が面白いように二重写しとなることは以前にも記した(→【宋の測量技術・記里鼓(キリコ)と東海道】・【鶴見寺尾図のミチを辿って】)。 これまでの研究では、この絵図は現在の鶴見区・鶴見橋付近の「絵図」とされてきたが(→【番外:「横濱」vol.20~鶴見川流域の物語】)、私はやはり、この絵図は現代の地図と同じくらいに高い精度を有する「実測図」であると考えている。 またこの絵図には、『鶴見川』に並走する『橋』のかけられた『道(おそらくこれが【「横濱」vol.20~鶴見川流域の物語】にある「鎌倉街道・下の道」だろう。)』が記され、街道を挟む格好で『巨大な北向きの寺(→【巨大な『寺』(1)秘密の御殿】)』と『仏殿地(→【鶴見寺尾図の『仏殿地』~大倉山】)』がある。この配置は、鎌倉の「円覚寺」と「東慶寺」に同一のものだ(→【『祖師堂』(3)鎌倉尼五山・第二位「東慶寺」】)。 これは私の妄想だが、鎌倉時代の「鶴見寺尾郷」は、「鎌倉の北」とか「北鎌倉」と呼ばれる地域で、各地を往来する商人や中国人をはじめとする渡来人が集住する商都(→【夢うつつ(11)商都と無縁】)であったが、元寇以後の1282年に「円覚寺(→【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】」が、そして安達氏の滅亡後の1285年に「東慶寺(→【『祖師堂』(3)鎌倉尼五山・第二位「東慶寺」】)」が建設されたことがあったのではないだろうか。 その際、鶴見の地に集住していた宋人たちは自らの持つ高い測量技術を駆使して実測図を作成し、この地を「円覚寺」に寄進した(→【霜月騒動(6)むくりこくり】・【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】)。 しかし翌・弘安六年(1283年)に、「円覚寺」が宮将軍(惟康親王)の祈願所となったりするうち、「円覚寺」の近辺に将軍の宿所を用意する必要に迫られ、さらに親王の保護と監視のために、執権の北条貞時も近侍せざるを得なくなったが、都合の良いことに父・時宗創建の「円覚寺」の向かい側に、母・覚山尼開山の「東慶寺」があったので、そこを「北鎌倉の貞時邸」として使用した、と考えてみるのもおもしろい。 つまり正応二年(1289年)に後深草院二条が「とはずがたり」に記した豪華な北条貞時の屋敷とは、「鶴見寺尾図に描かれる巨大な寺」であり、邸内には「角殿(すみどの)」と呼ばれる質素な将軍の御所があったが、新たに後深草院の皇子(久明親王)が東下する際、角殿を立派な御所に造り替える必要に迫られ(→【とはずがたり(7) 平頼綱と北条貞時邸】)、『仏殿地(初期の円覚寺?)』を御所、『寺(初めは東慶寺として建立したものを貞時邸として使用?)』を宮将軍の後宮(後の名称はおそらく「法華寺」→【『祖師堂』(2)天台宗・熊野山全寿院法華寺】・【商業ギルド(7)南都勢力】・宗泉律寺【上海の虹橋】)に改築したのではないだろうか。 「とはずがたり(→【とはずがたり(3) 貧相な貴族vs居丈高な武士】・【とはずがたり(4) 新八幡】)」にもあるように、当時の鎌倉では武家が台頭し、親王家は凋落の憂き目をみていたが、一方でそうした状況を傍目に鎌倉と組んで勢力を伸ばした西園寺家(→【西園寺家の所領】・【関東申次と西園寺家】)や冷泉家(→【藤谷殿(とうこくどの)】)のような公家もあったわけで、宮家が彼らの行動に学ばなかったはずはない。 宮将軍も3代目ともなれば、幕府との間で実利的でシビアな駆け引きが展開できるようになるだろう。それまで自らの権威をたのみに西国的な物々交換と贈与の理論に始終してきた宮家も、東国風の貨幣経済の理論を学んだ後に、例えば将軍の下向の条件として、幕府に鎌倉に一定の領地を要求するなどをしたのではないか。 しかし鎌倉は、武家と公家が所領争いをするには土地の有効面積があまりに狭い(→【宿坊港湾都市(4)宮将軍の後宮?】・【市の立つ場所】)。そこで幕府の管理下にありながら、幕府にも朝廷にもまつろわぬ勢力の寺社地や自治都市などの一部を(→【「王の庭」と自治都市】)、宮家に献上する策が講じられたかもしれない。 私がそのように妄想する根拠は、中世の贈与に関する慣行にある。 以下は、2012年2月26日(日)の日本経済新聞21面・読書欄にある桜井英治著「贈与の歴史学」(中公新書)についての書評で、東京大学助教授・高橋典幸氏の手による「市場経済に近い中世日本の慣行」からの抜粋である。 贈与というモノのやりとりを通じて紡ぎだされる人間関係は、時代や地域によってさまざまな姿をみせる。なかでも日本の贈与には賄賂や虚礼といった負のイメージがつきまとうが、それにはどのような歴史的背景があるのだろうか。著者は中世日本に行われた贈与の功利的性格を明らかにし、そこから中世社会や中世人の特徴を読みとろうとする。 贈り物を受けた人はふつうお返しの必要を感じるものであるが、中世人はそこに極端なこだわりをみせ、同等程度の物品をやりとりすることに執着した。贈ったモノに比べてお返しがつり合わないと判断されると、その受け取りが拒否されることすらあった。彼らにとって贈答品は「心のこもったプレゼント」というような情緒や個性ではなく、「いくらに相当するモノか」、その交換価値こそが重要だったのである。 その結果、交換価値が最もはっきりしている銭も贈答の対象となり、さらには互いに贈りあうべき銭の額面のみを勘定・決済して、「贈与の相殺」さえ行われていたという。まさに商取引一歩手前の姿といえよう。 こうした特異な贈与慣行が儀礼に結びつくと、人々はその一環として否応(いやおう)なく贈与を強いられることになる。これを財政に組み込んでいたのが中世の政治権力、特に室町幕府であった。何らかの財政出動が必要になると、たとえば将軍は寺社へ御成を行い、御成先で贈られる引き出物をその財源にまわしていた。 けっして力ずくで取り上げられるわけではないが、御成りという儀礼を介しているだけに寺社は引き出物を「贈与しなければならない」のであり、幕府は確実に財源を手に入れることができた。その収支計算も可能で、予算化さえされていたという。実用的な財貨調達手段という意味では、中世の贈与は市場経済の世界と近いところにあったのである。 中世人や彼らの間で行われた贈与慣行の功利的性格には驚かされるが、著者も戒めるように、過去を見くびってはならない。「過去は現在よりも常に素朴である」という先入観を排して歴史に向き合うことの必要性を、本書からあらためて気づかされた。
文化庁のHPによれば、金沢文庫に収蔵の重要文化財「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」は、「建長寺塔頭正統庵領であった鶴見・寺尾両郷に関する境界論に際して、南北朝初期に作成された絵図」だという(→【重要文化財「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」】)。
【前項】では、「建長寺塔頭正統庵」と呼ばれうる人物について推測してみたが、さらに建長寺の「正統庵」には、もうひとつ非常によく似た呼称が存在する。それが「建長寺正續(続)庵」である。 「正統庵」と「正續(続)庵」は、ワープロやタイプライターがなく毛筆で書写した時代なら、それが故意であれ不注意であれ、簡単に読み間違えや書き違えが起こりうる字面である(「鶴見寺尾図」のなかにも、「子ノ神」を「子安郷」へと加筆修正したようにみえる箇所がある。→【観音山に昇る月】・【『性園堀籠』と松蔭寺】・【鶴見寺尾図のミチを辿って】・【中世の商業・金融ネットワーク(11)『小笠原蔵人太郎入道』・『三嶋東太夫』・『子安郷(子ノ神?)』】)。 「建長寺正続庵」と呼ばれる人物は、言わずと知れた円覚寺開山の中国人僧・無学祖元(→【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】・【『祖師堂』(3)鎌倉尼五山・第二位「東慶寺」】)だ。 鎌倉・建長寺の北、現在の横須賀線「北鎌倉駅」近くに、鎌倉街道をはさんで「東慶寺(→【『祖師堂』(3)鎌倉尼五山・第二位「東慶寺」】)」と向き合う格好で、臨済宗円覚寺派総本山「瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさん・えんがくこうしょうぜんじ)、通称「円覚寺(えんがくじ)」がある。 本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗(→【霜月騒動(11) 執権の執事vs 将軍の家人】・【『仏殿地』と『北向きの巨大な寺』】)である。 円覚寺は、1282年(弘安五年)に北条時宗が中国より無学祖元禅師を招いて創建された。時宗は禅を弘めたいという願いと、蒙古襲来(→【霜月騒動(6)むくりこくり】・【霜月騒動 (5)「元寇」前夜】)による殉死者を「冤親(中国語:yuanqin 仇敵と味方)平等」(敵味方を区別せず)に弔うために円覚寺建立を発願した、といわれる。円覚寺の寺地は、弘安元年(1277年)に蘭渓道隆とともに定めてあった(→【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】)。 「円覚寺」の名は、起工の際に地中から「円覚経(=大方広円覚修多羅了義経:中国で8世紀初旬頃に編纂された)」を納めた石櫃が出てきたことによる。また「瑞鹿山」の 山号は、無学祖元が仏殿開堂落慶の折、法話を聞こうとして白鹿が集まったという奇瑞からつけられた、という。 無学祖元の法灯は、高峰顕日(→【前項】)、夢窓疎石と受け継がれ、室町時代には鎌倉五山第二位に列せられ、日本の禅の中心的存在として五山文学や室町文化に影響を与えた。(鎌倉時代にはすでに中国をまねた五山制度があったが、当時の円覚寺の序列は定かではない 。) 円覚寺は創建以来、北条氏をはじめ朝廷や鎌倉幕府の祈願所(→【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】)として発展し、寺領の寄進などを受けて経済的基盤を整えながら、鎌倉時代末期には伽藍が整備された。 幕府滅亡後は、夢窓疎石(→【前項】・【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】)が住職となり、後醍醐天皇(→【中世の商業・金融ネットワーク(2)悪党】・【霜月騒動(7) 杭州~博多~紀伊】・【「二階堂谷」と「永福寺」】・【「建武の新政」期の都市】・【観音山に昇る月】)の力もあって繁栄し、42の支院を持つ寺となった。 しかし、 室町~江戸時代に幾たびかの火災に遭い、特に1526年(大永6年)の里見実堯の来襲で大きな打撃をうけて、全山が焦土と化した。それを江戸末期(天明年間)に大用国師(誠拙周樗)が僧堂・山門等の伽藍を復興し、今日の円覚寺の基礎を築いた。 伽藍は、1334年(または1335年)の「紙本淡彩円覚寺境内絵図」による七堂伽藍の形式が伝わっており、 山門(三門)、仏殿、方丈が一直線上に並ぶ「禅宗様式」である。 円覚寺には、開山・無学祖元の塔所としての「正續院(開山塔)」がある。本尊は文殊菩薩、鎌倉地蔵巡礼の第13番札所(手引地蔵)でもある。 「正續院」の地には、もともと1285年(弘安八年)に9代執権・北条貞時(→【とはずがたり(7) 平頼綱と北条貞時邸】・【とはずがたり(8) 乳母】)が仏舎利を納めるために建立した「祥勝院(しょうしょういん)」という堂宇があった。 1286年(弘安八年)に無学祖元が建長寺で示寂すると、建長寺に正続庵が創設されたが、1335年(建武二年→【建長寺正統庵領鶴見寺尾郷】・【1239年「鳥山の開発」と1334年「鶴見寺尾図」】)に、後醍醐天皇の勅命で夢窓疎石が円覚寺舎利殿を無学の塔頭とし、建長寺の「正続庵」には浄智寺第十四世高峰顕日の塔所を移して「正統院」とした。 円覚寺の舎利殿は「正続院」の中心となる建物だが、当初の舎利殿は、1563年(永禄六年)の火災で焼失し、現在の舎利殿は、西御門にあった尼寺「太平寺」の仏殿を移築したものである。(この建物は我が国最古の禅宗様建築物といわれ、神奈川県唯一の国宝に指定されている。) 円覚寺には、現在二つの池がある(現在と江戸時代の「円覚寺境内図」と1335年の「紙本淡彩円覚寺境内絵図」)。鎌倉道に面する「白鷺池」と舎利殿前の「妙香池」がそれである。 「白鷺池」の名は、宋から日本に渡った無学祖元が寺院の立地を探していたところ、白鷺に導かれてこの湿地に辿りついたことにちなむ、という。「妙香池」は夢想礎石の造園による方丈庭園の一部となっている。 さらに3つ目の池として、かつては「正続院(開山堂)」の裏に、「宿竜池(しょくりゅうち)」と呼ばれる池があったとされ、無学祖元が来日する際、舟を守護していた竜がここに宿した、といわれている。 関東地方で最大級を誇る円覚寺の国宝「梵鐘(洪鐘)」は、正安三年(1301年)に北条貞時が物部国光に鋳造させたものだが、材料の金銅は、江の島弁財天の加護でこの「宿竜池」の底から得たとされ(円覚寺の鎮守として弁財天を祀る「弁財堂」が今も置かれているのはこのためだ。)、それにより正続院の客殿は「宿竜」と呼ばれ、室町時代には足利義光により円覚寺正統院殿堂の「普現・宿龍・桂昌」の額字(国の重要文化財)が書かれた。 また円覚寺には、円覚寺の大檀那であった北條時宗・貞時・高時を祀る「開基廟(「佛日庵御霊屋」とも呼ばれる)もある。時宗は、円覚寺建立の2年後~弘安七年(1284年)四月四日に没したが、「開基廟」は時宗の没後に建立されたようで、現在の開基廟は江戸時代の文化八年(1811年)に改築されたものという。 「祥勝院(しょうしょういん)」と「正統院(しょうとういん)」~この二つは音が非常によく似ている。 「正統院(庵)」と「正続院(庵)」~この二つは字面が非常によく似ている。 いつの時代もそうだが、物事があいまいに語られる場合はどこかに嘘が混じっている可能性がある。現在の円覚寺は1334年(または1335年)の絵図に従って再建されたものだが、もしかするとそれは鎌倉時代の円覚寺と同一でない可能性もある。 中国大陸の宋王朝の滅亡や鎌倉幕府の滅亡を機に、北条氏や渡来人たちが鎌倉で築き上げた莫大な財の寄進をめぐって、寺同士がきな臭い利権闘争に走った、という感がなくもない。 *参考資料:円覚寺公式HP 臨済禅・黄檗禅公式HP 「鎌倉史跡案内道標」 「鎌倉手帳別冊OKADOのブログ」
12月23日は天皇誕生日、国家の祝日である。これに合わせたわけでもないだろうが、2011年12月23日(金)の日本経済新聞朝刊一面に、
「皇室典範改正を検討 政府 女性宮家創設 視野に」という見出しの記事があった。 少し前の12月11日付朝刊にも、この問題に関する記事があり、本文の横に皇位継承に関する資料的短文が併記されていた。以下は、その短文の抜粋である。(*部は、筆者による加筆。) 現在は230年直系~「男系より重要」の声も 皇位の継承は古代から近世まで子や孫への直系継承と、兄弟・親戚への傍系継承が交互に行われてきたが、男系が条件とされた記録はない。皇室に限らず、家制度のもとでは男子が継承する習慣があったため、あえて明文化されなかったとみられる。 むしろ南北朝時代の公卿、北畠親房(*→【観音山に昇る月】・【「建武の新政」期の都市】)が『神皇正統記』で唱えた「正統(しょうとう)」が重視された時代があった。これは直系継承の天皇こそ正統であるという思想。中世の天皇が若いうちに譲位をして院政を敷いた動機の一つに、自己の直系の系統を早めに確立しておくことがあった。 現在の皇室は江戸時代の1780年に即位した光格天皇から7代、約230年間直系の天皇が継承してきた。これだけ長く直系天皇が続いたのは日本史上まれだ。 男系が継承の条件として初めて明文化されたのは1889年に制定された明治憲法と旧皇室典範。当時は男系が途絶えた場合を想定し、女系も認めるべきだという議論があった。明治初期までは男系が絶対の原理と考えられていなかったといえる。 「万世一系」という綱渡りのような制度を維持するため、皇室は時代に応じて柔軟に継承方法を変えてきた。皇室研究の専門家には「近代以降の天皇は直系で続いており、国民もそこに親しみをもっている。男系よりも直系を重視すべき」という意見もある。 この問題は、もう随分長く提起されてきたことで、いまさら話題にするのは遅きに失する感があるし、そもそもやんごとなきご一族のお家問題について、赤の他人である下々の者が議論することができるのかも、私にはわからない。またどのような家であっても、相続について他人にとやかくいわれることは好まない、という気もする。 しかし、そうした束縛から逃れられないのが「王」・「宗主」・「名家」・「名門」といったセレブリティ(→【番外:「王子」、別荘でジェット・スキ‐に乗馬】)の宿命だ。名家の存亡は、そこに関わる人々に様々な利害を及ぼさずにはいられない。 例えば宮内庁のHPをみると、平成23年度の皇族費総額は2億8,823万円だが、宮内庁費(宮内庁運営のための人件費・事務費など)には、107億8,557万円が使われている(→宮内庁HP・予算)。仮に皇室が存続できなければ、宮内庁は組織もろとも廃業となるだろう。 またあるいは、仮に東京電力が倒産すれば、経済産業省なども極上の天下り先を失うことになる(→【夢うつつ(8)殷と縄文と「鶴見寺尾図」】)。セレブと利権団体は、往々にして持ちつ持たれつの関係に陥るものだ。 さて鎌倉時代のセレブといえば、まずは源氏があげられる。しかしその源氏は3代が征夷代将軍を世襲したのちに滅亡している(→【「亀谷」(2)乙姫の墓】)。次に有名なのは、北条氏だろう。しかしこの一族もまた、鎌倉幕府の崩壊とともに離散した(→【寺と地図(8)極楽寺新造山庄】・【霜月騒動(3) 安達泰盛と北条時頼】・【とはずがたり(7) 平頼綱と北条貞時邸】・【夢うつつ(12)地域の空洞化と鶴見合戦】)。そして鎌倉幕府が倒れると、ついには天皇家までが南北朝に分裂し、南朝のご落胤たる親王将軍は鎌倉で薨じる(→【中先代の乱(1)征夷大将軍・護良親王の死】)。 こうしたことに関して様々な記録があるということは、それが血族外の「部外者」にとっても重要な情報であったということだ。「名家」の莫大な資産の恩恵に浴する多くの「部外者」にとって、「名家」の威光はなくてはならないものだった。 ところで文化庁のHPによれば、「鶴見寺尾図」は「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」と名称され、「建長寺塔頭正統庵領であった鶴見・寺尾両郷に関する境界論に際して南北朝初期に作成された絵図」とある(→【重要文化財「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」】・【建長寺正統庵領鶴見寺尾郷】)。 ここでいう「建長寺塔頭正統庵領」の「正統庵」とは、果たしてどのような人物を指すのだろう。1334年に「正統」と称される可能性のある人物なら、征夷大将軍の継承者や、またあるいは天皇家の血族などが考えられるかもしれない。 その両方の条件を備えるのは、建武政権下で征夷大将軍となった護良親王だが(→【中先代の乱(1)・(2)・(3)・(4)・(5)】)、「庵」号が付くことに注目するなら、1333年の鎌倉幕府滅亡時に鎌倉で出家して、まもなく薨じた守邦親王(→【とはずがたり(8) 乳母】)の可能性も高そうだ。そして勿論、現在も鎌倉の「建長寺正統院(しょうとういん)」に祀られる高峰顕日(こうほうけんにち:1241年-1316年)も、後嵯峨天皇(→【「亀谷」(6)宗尊親王の御所】・【関東申次と西園寺家】・【とはずがたり(1)後深草院二条】・【とはずがたり(5) 惟康親王の追放】)の第二皇子だから、最有力の候補になる。(高峰顕日の塔所はもともと浄智寺にあったが、建武二年、つまり1335年に後醍醐天皇の勅命で夢窓疎石によって無学祖元の塔所であった建長寺正続院の跡地に移された。同時に正続院は円覚寺に移されている。) そもそも「鶴見寺尾図」の域内には、ヤマトタケルの昔から「将軍」にまつわる伝承が多く残る(→【宿坊港湾都市(2)将軍来臨】)。 仮に、当地が「将軍の別荘」として管理された時代があったなら、その「将軍」が誰であっても、また「将軍」が不在であっても、地域と管理者には大きな利権があったことは想像に難くない。鶴見の地で1333年と1335年に2度も「鶴見合戦」が起こったのは、当地の莫大な利権をめぐって激しい争奪戦があった、ということを示すのかもしれない(→【中先代の乱(5)鶴見合戦ふたたび】)。 いつの世も、セレブ興亡の陰で、下々の者もまた、生き残りを賭けた死闘を繰り広げた。 大きな問題が表面化するとき、その咎を当事者やトップにだけ負わせるというのも、少し理不尽な気がする。問題の地下には、イモ蔓式に悪の根が広がっている、と見たほうがいいし、あなたも私も、もしかするとその複雑な根っこの末端に絡めとられている可能性は否定できない。 私たちの眼に映るこの「うつつ」の世界も、実は砂上の楼閣のようなもので、常に危ういバランスの上に刹那に顕現するだけであって、「真のかたち」などというものは初めから存在したことがない、と言うことだろうか(無学→【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】・【夢うつつ(10)色即是空 空即是色】)。 *参考資料:宮内庁HP
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