夢うつつ (22)めぐりゆく覇権

 ニーアル・ファーガソンの著書「文明~西洋が覇権をとれた6つの真因」によれば、1500年の時点で、やがて世界に君臨する多くの帝国は地表面積の1割を占めるだけだったが、1913年には西洋の11の帝国が陸地と人口の5分の3余りを支配した、という。著者は、西洋が優位性を確立した要因は以下の6つにある、と分析している。
 ①競争(発展を促進)
 ②科学(主に軍事技術に貢献)
 ③所有権(法の支配によって政府を安定させる)
 ④医学(長寿を実現)
 ⑤消費社会(産業革命の持続に寄与)
 ⑥労働倫理(社会を安定させる)
 
 しかし、このように「複雑適応系のような文明」は、ある日突然に崩壊する、とも述べている。

 そして、こうしたヨーロッパ勃興の前身として、13世紀のアジアには大モンゴル帝国があり(1206年、チンギス・ハンが建設。大汗の直轄領と4汗国からなる。1271年、フビライ・ハンが中国を統一して元朝を建てたことなどを契機に、継承者争いが続いて4汗国は独立、帝国は事実上崩壊する。→【鶴見寺尾図幻影(1)大都】・【前項】)、小アジアにはオスマン・トルコ(1299年-1922年。小アジア、北アフリカ、西アジア、バルカン黒海北部、カフカス北部を支配。16世紀に最盛期に達した。)が存在していた。

 アジアの東の最果て、辺境の孤島に位置する日本列島にも、大モンゴル帝国の栄光は幾ばくかの余波を伝えたようで、鎌倉幕府の勃興をファーガソンの「帝国の優位性」になぞらえてみることもできるかもしれない。
 例えば、
 ①一所懸命(貴族的階級社会から武家社会への移行は、実力による競争重視の結果である。)
 ②禅の勃興と科学の進展(平安時代的な宗教耽溺から、物事を平明でわかり易く、あるがままにとらえるという、より科学的かつ学問的な宗教アプローチが進んだ。→【『祖師堂』(4)鎌倉仏教】軍事も、神事や祈祷からより実践的な戦術へ変化する。→【鶴見寺尾図の用水路(11)騎射三物】・【鶴見寺尾図の用水路(12)笠のぎ稲荷】・【海岸沿いの『大きな格子状の水場』(4)青木城】)
 ③所有権(御成敗式目の制定や雑訴決断所の設置により、領地相続など紛争の法的解決を求めた。→【商業ギルド(6)雑訴決断所】・【『祖師堂』(5)明恵と北条泰時】)
 ④医学(禅宗系の僧により中国・宋の最新医術が持ち込まれる。律令制の崩壊により、医療の主軸が官制から民間の仏教集団に移行、中世寺院は経済、技術、知識の多くを抱え込み巨大化した。→医王山【『ミチCの終点』(7) 「東方山医王寺」炎上】・【中先代の乱(3)東光寺・理智光寺】・【『本堺』(16)「根古屋」~小机郷108ヶ村の首郷】。「鶴見寺尾図」の『巨大な寺』→【建長寺正統庵領鶴見寺尾郷】・【巨大な『寺』(1)秘密の御殿】・【『仏殿地』と『北向きの巨大な寺』】)
 ⑤消費社会(商業都市・鎌倉→【「えの木戸は さしはりてみす」】・【商業ギルド(11)座】・【中世の商業・金融ネットワーク(1)貨幣経済と市庭】)
 ⑥労働倫理(「御恩と奉公」「恩賞」→【中先代の乱(1)征夷大将軍・護良親王の死】・【霜月騒動(9) 弘安徳政】・【霜月騒動(4) 安達氏と寺社】)
などが考えられる。

 そして複雑になりすぎた幕府の利害関係は、ある時期を境に機能不全に陥り、動乱の果てに自壊した(→【中世の商業・金融ネットワーク(2)悪党】)。

 西洋の覇権は、15世紀から20世紀にかけて、ポルトガル~スペイン~オランダ~英国~アメリカと次々に移転するが、これはその覇権運営の中枢に入り込んだ資本家が(色目人→【前項】)、王家あるいは国家自体を食い尽くしたところで、より可能性の大きな国へと順々に覇権を移してゆくように見えなくもない。全欧的なネットワークを持つ巨大資本家たちは、いつも国家から自由な存在だ(→【商業ギルド(2)マグリブの商人とジェノバの商人】)。「複雑適応系のような文明」が、ある日突然に崩壊するのは、成長力に見切りをつけた資本が、ある時点を境に、一斉に新しい国へ移動することにもよるのだろう。

 こうした資本家のネットワークは、ヨーロッパだけでなく、おそらくはアジアにも(→【夢うつつ(3)錬金術師たち】・【商業ギルド(3)宮人・神人・勧進僧・悪党・海賊】・【番外:会寧(フェリョン)の馬市】)、中東にも、アフリカにも固有のものが存在する。さらにいえば、そのネットワークは常に更新され続けている。その様相は、細胞の絶え間ない分裂と死滅を繰り返しながら、成長し、老化し、やがては霧散するひとつの生命体のようだ。

 つまり国家の存亡とは、そうした輪郭の不明瞭な「覇権主義的資本」と協調したり対立したりしながら、いかにうまくコントロールしてゆけるにかかっている、ともいえる。
 国家運営にかかわる者が、賄賂や地位と引き換えに「資本に流される」ようでは、その人物は亡国の輩の烙印を押されるのみである。今、日本の政治家や官僚に国家運営に対する知恵と気概があるのか。あって欲しい、と望むばかりだ。
 そして資本にも、やはり仁義と道徳が求められる。仁義や道徳は、なにも「任侠」の世界だけの話ではない。それはあらゆる階層において、自らとその子孫を含め、人が長く生存してゆくための基本的なルールなのだ。

*参考文献:ニーアル・ファーガソン著「文明~西洋が覇権をとれた6つの真因」(2012年)勁草書房

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# by jmpostjp | 2012-08-31 10:48 | Trackback | Comments(0)

夢うつつ (21)重商主義の光と影

 2012年7月20日(金)の日本経済新聞文化欄に、こんな記事がある。以下はその抜粋である。(*部は筆者による加筆。)

 イスラムの動物十選 ◇4  東京大学教授 桝屋 友子
 13世紀から14世紀にかけてユーラシア大陸の大きな部分を覆った大モンゴル帝国では、中国の大都(現在の北京*→【鶴見寺尾図幻影 (1)大都】)を首都とする元朝が宗主国となり、イランやイラクなどを領域とするイル・ハーン朝を含む、いくつかのモンゴル国家を従えていた。
 中国内では皇帝の象徴である龍と鳳凰(ほうおう)の文様を宮殿や身近な品物を装飾するのに用いていたが、イル・ハーン朝君主もそれにならってイラン・イラクに中国の龍と鳳凰の図像を持ち込み、自分の持ち物に使用させた(*→【とはずがたり(7) 平頼綱と北条貞時邸】)。
 このタイルは、イル・ハーン朝君主がイラン西北部の山奥に建設した夏の宮殿の壁面装飾に使用されていたと考えられる。龍と鳳凰の絵が交互に並べられていたようだ。
 図像を持ち込んだのはモンゴル人でもタイルを製造したのはイラン人。青色の釉薬(うわぐすり)をかけて一度焼いてから、金箔を貼り、エナメル彩画してもう一度焼くというイラン独特の製陶技法を使いながら、見慣れない鳳凰のデザインを再現した(ただし頭部を含む左上角の部分は後の制作)。
 雲の中を金色の羽毛を輝かせながら飛ぶ鳳凰の神々しい姿はイラン人にイラン古来の霊鳥スィームルグ想起させた(*インドの「マカラ」と中国の「魚尾星」→【前項】)。そしてこれ以降、スィームルグの図像として鳳凰の姿は定着するのである。
 (13世紀 岡山市オリエント美術館蔵)
 「鳳凰文タイル」(部分)(*図像略)

 元朝が、モンゴル本土や中国全土のみならず、高麗やチベット高原を含むアジアの大半と東ヨーロッパやロシアにまで帝国の版図を拡大することができたのは(元寇→【霜月騒動(5)「元寇」前夜】・【霜月騒動(6)むくりこくり】・【海岸沿いの『大きな格子状の水場』(4)青木城】)、モンゴル至上主義の原則に立つ専制官僚支配を行いながらも、科挙によらない実力主義の人材登用を行ったこと、塩の独占・商税の徴収(→【全真教と元の免税特権】・【道教(Taoism)】)・交鈔(こうしょう:兌換紙幣)の運用を中心とした重商主義を採用したことなどがあったとされる。
 そして、この重商主義政策の要となったのが、高額決済を可能にする兌換紙幣の存在だった。

 
 中国では紙幣の前身として、唐代から「飛銭」と呼ばれる役所発行の手形が用いられており、北宋では商人たちの間で「交子」・「会子」と呼ばれる手形が使われていた(日本列島で流通する為替手形→【中世の商業・金融ネットワーク(2)悪党】・【中世の商業・金融ネットワーク(1)貨幣経済と市庭】。替銭→【商業ギルド(4)雑務沙汰】)。
 南宋になると、「会子」は政府によっても発行され、これが世界最初の紙幣となった。(が、後に大量発行され、インフレーションを引き起こした。商人たちの閉ざされた商圏の中では、一定の規律を持って流通していたものが、役所の手に渡った途端に、濫発・乱用が始まるのはどこの国、いつの時代も同様である。経済圏が広域になると、不渡りリスクの所在が曖昧になるため、多くの「嘘」が可能になるからだ。→【商業ギルド(2)マグリブの商人とジェノバの商人】)
 また当時の中国では、政府によって茶や塩の専売制度があり、生産地における専売品との引き換えには「茶引」・「塩引」と呼ばれる手形が流通していたが、これも紙幣の代用として機能していた。
 北宋や遼の銭貨を用いていた女真族の金王朝(1115年 - 1234年)は(→【「えの木戸は さしはりてみす」】)、海陵王の治世(1150年- 1161年)に、「交鈔」と呼ばれる紙幣を発行したが、やはり大量発行によりインフレーションを引き起こした。
 そして、この時代までの紙幣はすべて、それまでの手形の名残りから、使用できる年限が定まっており、期限を過ぎるとただの紙切れと化した(但し、期限前に役所に手数料を払えば、新しい紙幣との交換できるものもあった)。
 つまり元朝以前の紙幣は、そこに付随する価値を「永遠にため込んでおく(→【中世の商業・金融ネットワーク(8)貨幣≒神】)」ということができないしくみになっており、あくまでも期間限定で通用する証文にすぎなかったのである。

 ところが、元のクビライは1260年に即位すると、「中統元宝交鈔(通称・中統鈔)」という、有効期限のない紙幣を発行する。しかもこの元の「交鈔」は、補助貨幣ではなく基本貨幣であり、さらには金銀との兌換(交換)が保障される兌換通貨でもあった。
 重商政策を採用する元は、決済の利便性から紙幣の流通を推進したが、この「交鈔」もやがて大量発行されてインフレーションが発生する。
 そこで1287年(南北朝の分裂→【海岸沿いの『大きな格子状の水場』(4)青木城】)、「中統鈔」の5倍の価値に当たる「至元鈔」を発行し、旧紙幣の回収を行うと、紙幣価値は一旦安定に向かったが、その後も絶えまなく紙幣の大量発行をしたことでやはりインフレーションが起こり、ついには金銀との兌換を中止した。ここに至り「交鈔」の価値を維持する目的で、生活必需品である塩の専売制(→【市をめぐる誇大妄想(28)日本語】)と通貨制度をリンクさせ、塩の売買にも「交鈔」を用いるよう定めるが(これにより「塩引」は国際通貨である銀と交換される価値を獲得し、しかも一枚の額面額が高いために、商売上の高額決済に便利な高額通貨とみなされた)、塩は金銀よりも増産が容易であり、やはり「交鈔」は濫発される結果となった。
 もとより塩の専売制による歳入は、元の経済政策の根幹に関わるため、密売は厳しく禁止されていたが、14世紀に入ると、中央の政治も弛緩し、塩の密売や紙幣の濫発が横行、信用失墜により紙幣の価値は暴落する。結果、元の金融政策は破綻、「交鈔」は1356年に廃止された。
 明代では、「宝鈔」という紙幣と「銅銭」を併用するとともに、金銀を貨幣として利用することを禁止、更に1392年から1435年までは銅銭の使用も禁じたが、金銀との兌換ができない「宝鈔」の価値は下落し、民間ではふたたび銀が通貨として使用されるようになったため、政府も銀による納税を認めざるを得なくなった。
 清代でも基本的に明代と同じような通貨政策がとられた。

 重商主義には、あまりにまばゆい光がある。商圏の拡大に伴って、きらびやかな文化が周辺各地へ伝搬し、技術革新により生活のあらゆる面が便利になる。人々はそれらを諸手を挙げて礼賛する。これらは紛れもなく、重商主義の美しい側面である。

 しかし、この重商主義を支える国の貨幣価値を保障するものは、畢竟いつでも書き換えが可能な「制度」でしかなく、それはまことに人為的なものだ。それはある種の「虚構」であり、あるいは「信用」と呼んでもよい。
 かくも巨大なモンゴル帝国がわずか100年(1271年-1368年)で滅びることになったのは、こうした制度の人為操作の行き過ぎにあった。またあるいは、制度や法規を過信していた、ということかもしれない。つまり色目人(モンゴル人、漢人、南家以外の総ての人々。胡人など明るい色の瞳を持つ人々のこと。)と称される財務に明るい政商を重用したことは、商圏の拡大には貢献したが、彼らはやがて税制や法制を自分たちの都合のいいように曲解し、汚職の限りを尽くし、そのツケを民衆に負わせて不当な搾取を続けるようになった。
 そして政府はそれを律することができない。公権力も所詮、暴力性を巧みに隠蔽しただけの、欺瞞に満ちた富の収奪装置となりやすい機関なのだ。これが重商主義政策の影であり、人心の暗愚な側面である。

 元朝の勃興と繁栄とその滅亡は、金融資本主義が席巻する現代世界によく似ている。
 1971年、アメリカはドルの金交換停止を発表した(「ニクソン・ショック」)。以来、ドルはどんどん増刷されている。
 私たちが、華麗な文化や新しい技術に浮かれている間に、税制や法制を自分たちの都合のいいように曲解し、(合法・不法に)職権乱用の限りを尽くして、ツケを民衆に負わせる人々が(→【夢うつつ(13)「鴻臚館」)、個人規模で、企業規模で、自治体規模で、国家規模で、世界規模で、今日も世界を跋扈している。


*参考資料:ウィキペディア「中国の貨幣制度史」
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# by jmpostjp | 2012-07-29 12:12 | Trackback | Comments(0)

夢うつつ (20)東の「鴟尾」 < インドの「マカラ」 > 西の「ガーゴイル」

 2012年5月18日、文部科学省の文化審議会は、「天平の甍(いらか)」として知られる唐招提寺・金堂(奈良県奈良市)の屋根を飾った「旧鴟尾(しび)」と、江戸時代中期の「歓喜院聖天堂」(埼玉県熊谷市)の2件を国宝に指定するよう平野博文・文部科学相に答申した。

 唐招提寺(→【番外:「東大寺」の寺名】【寺と地図(7)忍性】)は、唐僧・鑑真が天平宝字三年(759年)に、淳仁(じゅんにん)天皇の時代の朝廷から新田部親王の旧邸宅を譲り受けて寺としたものである。「唐招提寺」の寺号は、「唐僧を招いて滞在してもらうための寺」というほどの意味であろうか(→【唐寺(とうでら)と開港地】)。
 唐招提寺の旧鴟尾は瓦製で、東西いずれも高さは約1.2メートルだが、重さは西側が190キロ、東側が240キロと異なり、形状にも若干の違いがある。これは西側が金堂創建(759年)当初に取り付けられた最古のものとみられるのに対し、東側は鎌倉時代に西側に倣って制作されたことによる。
 意匠は、外側の「ひれ」のような装飾が頂部先端まであしらわれずに途中で止まっているが、これは初唐文化の影響とみられている。

 鴟尾は、建物の大棟の両端を強く反り上がらせることで、建物に威厳を与えると同時に、屋根に降りかかる雨水を排水する役割を担うものだが、その起源は古代インドで敵を防ぐという呪詛的効果を狙い、門や入口に「マカラ」という伝説上の怪魚を飾ったことに遡る。
 怪魚「マカラ」は、水神「ヴァルナ」の乗り物であり、インド教の守護神にもなっている。図像的には、「ワニの大きな口」、「象の鼻」、「イルカの胴体」、「とぐろを巻く魚の尾」を持つ魚類の王とされる。水を操る力を有し、マカラの棲むという川や湖や海といった水辺(マカラーヴァーサー)も、崇拝の対象とされた。
 またインドには、「マカラ」と同種のものに、ガンジス川に棲むという神格化されたワニの「クンビーラ」もあり、こちらはインドの神話「リグ・ヴェーダ」で、ガンジス河を司る女神「ガンガー」の乗り物とされている。「クンビーラ」は後に中国へ伝搬すると「宮比羅(Gongbiluo)」あるいは「金毘羅(Jinpiluo)」と音写され、日本へは中国仏教を通じて薬師如来の守護神の一つとして伝えられて、漁師や海運業者など「水」に関連する業種に利益をもたらす神様「こんぴらさん」となった。

 さてこの「マカラ」が中国へ伝わると、「摩伽羅魚」・「摩竭魚」などと音写(漢訳)され、天上に住む「魚尾星」であると解釈されて、建造物や門を守護するとされた。
 漢代の墓に副葬されるミニチュアの建物には、すでに鴟尾の表現があり、唐末には魚や鯱(しゃち:海に住み、よく雨を降らすインドの空想の魚)の形へと変化して、陶製の神獣が宮殿や寺院の屋根に配された。宋代にはこれが人型の小像に変化し、元代には武将の神像も用いられた。そして明・清代には正吻(せいふん)と呼ばれる大きくを口を開けた龍が置かれるようになる。

 寺院建築の技術は、日本には朝鮮半島を経由して伝わり、飛鳥時代には既に鴟尾が作られていた。奈良の飛鳥寺(推古四年: 596年落成)では、厚さ約2㎝の繊細な線で羽の段を表現した瓦片が出土している。また山田寺や和田廃寺にも、胴部に羽根形の文様をもつ鴟尾があり、法隆寺(→【交通の要衝と寺】・【仏教伝来】・【巨大な『寺』(1)秘密の御殿】) の玉虫厨子(→【市をめぐる誇大妄想(19)橘三千代】)の頂上部には金銅製の鴟尾が見られる。
 白鳳時代の鴟尾は、胴部に珠文帯を設けたり、腹部に蓮華文を飾ったりされて、装飾性が豊かになる。
 それが奈良時代では、唐招提寺金堂にみられるような沓(くつ)形となった。奈良時代の鴟尾は瓦製の出土例が少なく、史料には金銅製鴟尾の記述があることから、金属製のものが主流であったかもしれない。
 平安時代になると、数は少ないが緑紬の鴟尾も作成された。
 中世では、それまで鳥の羽を模したような意匠をしていた鴟尾が、中国建築の影響を受けて、魚形に変化する。この頃から建物を火災から守るために水に関わる想像上の海獣を屋根にのせる風習が本格的に定着したと考えられ、戦国時代になると、城郭建築に権威を添えるために特に「鯱」が使われるようになった。

 インドの「マカラ」にまつわる呪詛と建築技術は、東へ伝搬して「鴟尾」となったが、これが西へ伝搬したものが「ガーゴイル」である。
 中世ヨーロッパの教会建築などで、屋根や軒先部分に「デビルマン」のような恰好の怪獣がついているのを見た人は多いだろう。これが「ガーゴイル」と呼ばれる雨水の排水装置だが、こちらの起源もなかなかに古い。
 例えば古代エジプトでは、既に寺院の平らな屋根の上にガーゴイルがあり、そこから吐き出される水で聖杯などを洗っていた。
 また、ギリシャ神殿の屋根の突端部にも、大理石で作られたライオンの口や、テラコッタ(赤土の素焼き)でできた貝殻があり、ここから水が流れ出るようになっていた。    
 そしてポンペイの遺跡(AD79年の火山により埋没)からも、種々の動物をかたどったテラコッタ製のガーゴイルが多数出土している。
 「ガーゴイル」の呼称は、屋根から水を流しだす際の「ガラガラ」、「ゴボゴボ」という音からつけられたと考えられているが、インド=ヨーロッパ語族なら、遠い昔には言語面だけでなく文化的にも「リグ・ベーダ」のエッセンスを共有していた可能性は小さくないから、ガンジス河の女神「ガンガー」の音韻が、「ガーゴイル」の呼称に一役買っているのではないか、と想像してみるのも面白い。(→【市をめぐる誇大妄想(2)インダス文明】・【市をめぐる誇大妄想(3)メソポタミア文明】・【市をめぐる誇大妄想(4)交易語】)

 さて、ここで鶴見寺尾図(→【重要文化財「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」】・【宋の測量技術・記里鼓(キリコ)と東海道】・【鶴見寺尾図のミチを辿って】)を見てみよう。
 絵図の中心に描かれる『北向きの巨大な寺(→【巨大な『寺』(1)秘密の御殿】・【『巨大な寺』(2)北向き】・【『巨大な寺』(3)北向観音(きたむきかんのん)】)』の屋根の傾斜は、奈良の「唐招提寺」や「秋篠寺」に似て、優美な反りを見せている。大棟に鴟尾があるかどうかは、残念ながら絵図の損傷により確定はできないが、残欠部分より推測すれば、何か装飾的なものがあるようにも見える。
 また絵図に描かれる2ヶ所の『阿弥陀堂』(→【『本堺』(8)『正福寺・阿弥陀堂』の東西南北】・【「永福寺(ようふくじ)」と「正福寺(しょうふくじ)」】・【南加瀬小学校と『阿弥陀堂』】・【「加瀬山」の変遷】)や『小池の前の中規模の屋敷』(→【鶴見寺尾図幻影(6)うらしま】)の屋根には着色がないにもかかわらず、『北向きの巨大な寺』の屋根には着色がされている。このことから『北向きの巨大な寺』の屋根には、他と異なる特別な材質(例えば「藁葺き」に対して「瓦葺き」、或いは「檜皮葺」であるなど。)が使われていたことが伺える。

  『北向きの巨大な寺』は、どこから見ても、周辺の建物に比べてかなり「ハイカラ」な趣がある(→【『仏殿地』と『北向きの巨大な寺』】・【商業ギルド(10)大陸間貿易】・【とはずがたり(8) 乳母】・【川の結節点~下耕地と六角橋商店街】・【鶴見神社(2)「入唐求法巡礼行記」】)。
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# by jmpostjp | 2012-06-13 12:23 | Trackback | Comments(0)

夢うつつ  (19)親王将軍の墓

 2012年4月27日(金)付の日本経済新聞46面・社会欄に、「両陛下、火葬・合葬を希望」というタイトルの記事がある。
 記事には「簡素化を検討 宮内庁がチーム(宮内庁→【夢うつつ(14)「正統(しょうとう)」】・【とはずがたり(1)後深草院二条】・【「増鏡」】)」と副題があり、さらに「解説」が付記されている。
 以下はその「解説」の抜粋である。(本文は省略。*部は筆者による加筆。)

 解説:「象徴とは」 考えた結論
 
 古代の天皇は土葬だったが、仏教の影響で火葬が行われるようになった(*→【寺と地図(3)「鶴見寺尾図」の古墳時代】)。室町時代中期から17世紀半ばまでは火葬が定着。以後土葬に戻ったが、見かけ上火葬の儀式は残され、幕末の孝明天皇で廃止されるまで続いた。
 江戸時代まで日本人の宗教観は神仏習合であり(*→【訂正:松蔭寺の白鳳金銅仏】・板碑→【鶴見寺尾図の用水路(12)笠のぎ稲荷】)、天皇家も神道式の祭祀(さいし)を行いながら、真言宗の檀家でもあった。京都市東山区の泉涌寺(*→【『祖師堂』(4)鎌倉仏教】・【寺と地図(7)忍性】)が菩提寺で、寺域内には多くの天皇の陵墓がある。
 明治維新政府は天皇を機軸とする国家体制を作るため、神道を事実上国教化する国家神道政策をとった(*廃仏毀釈→【中先代の乱(3)東光寺・理智光寺】・【寺社と都市整備】・【「舘」・「観」・「宮」・「殿」~道教寺院」】・唐の廃仏【鶴見神社(2)「入唐求法巡礼行記」】)。このため天皇家の祭儀、葬儀から火葬も含めた仏教色は一掃された。また、天皇の権威を高めるため、旧皇室葬儀令では大掛かりな式次第が定められた。
 戦後、天皇は日本国憲法で統治権者から国民統合の象徴となったが、祭祀や葬儀に関しては旧法の方式が踏襲された。現在の天皇陛下は明治憲法以前の天皇のあり方こそ本来の姿で、象徴天皇に近いと述べられている。葬法の変更も、象徴とは何かを考えられた末の結論だろう。                 (編集委員 井上亮)

 鎌倉幕府が倒れ、2度の「鶴見合戦」が起こった1333年と1335年、鎌倉で2人の親王将軍が薨じている(→【中先代の乱(1)征夷大将軍・護良親王の死】・【中先代の乱(3)東光寺・理智光寺】・【中先代の乱(5)鶴見合戦ふたたび】)。
 2人の親王将軍は、果たして火葬されたのか、それとも土葬されたのか。

 幕府滅亡の後、北条高時らが五月二十二日に自刃した日に、守邦親王(もりくにしんのう:正安三年〈1301年〉五月十二日 ~ 元弘三年〈1333年〉八月十六日)は将軍職を辞して、出家した。そして同年、鎌倉で薨じる。宗派はわからないが、親王はその死の直前に仏教に帰依した、ということになる。
 また、「太平記(勿論、この作品は物語であり、すべてが史実に基づくわけではない。)」によれば、東光寺で最後を迎えた護良親王は、時を経て理智光院の長老により葬られた、と記されるから(→【中先代の乱(1)征夷大将軍・護良親王の死】・【中先代の乱(2)「太平記」・【中先代の乱(3)東光寺・理智光寺】)、やはり仏式で葬儀が営まれたと想像できる。

 つまり両親王の葬送は、ともに仏式で行われた可能性が高い。だが、当時は神仏習合の時代であり、寺に「神式で」土葬されることがあってもおかしくはない。
 また或いは、現在の日本ではすっかり馴染みがなくなってしまったが、道教式に土饅頭を造って祀られた可能性も否定できない。
 なぜなら、「東光寺」・「理智光寺」・「鎌倉宮」の由緒に関わる月山友桂は、「全真教」を擁護する元朝に渡って1326年に清拙正澄(劉氏)とともに帰国した人物だが(→【建長寺船と海の交易権】・【全真教と元の免税特権】・【唐寺(とうでら)と開港地】・【「舘」・「観」・「宮」・「殿」~道教寺院」】)、その「月山」姓から北辰信仰を有する道教徒であった、と考えることもできるからだ(道教と北向きの寺→【『巨大な寺』(3)北向観音(きたむきかんのん)】・【『仏殿地』と『北向きの巨大な寺』】・【巨大な『寺』(1)秘密の御殿】・【『本堺』水路の掘削と犯土のタブー)】)。 

 ところで、親王殺害を画策したとされる足利氏だけでなく、室町時代以降、鎌倉殿をあずかる「鎌倉公方」として鎌倉入りした室町幕府の面々は、東勝寺で自害した北条氏をはじめとする800人以上の人々や(→【夢うつつ(12)地域の空洞化と鶴見合戦】)、東光寺で殺害された親王将軍(→【中先代の乱(2)「太平記」】・【中先代の乱(3)東光寺・理智光寺】)の「怨霊」を怖れることはなかったのだろうか。
 かの源頼朝も、「保暦間記」に「(末弟の)源義経(→【宿坊港湾都市(9)源義経】・【宿坊港湾都市(11)山内荘腰越】)や安徳天皇(→【『ミチC』(8)「水天宮平沼神社」の祭神・安徳天皇】)らの亡霊を見て気を失い、病に倒れた」と記されるように、自らの宿業に悩まされた。

 1335年に室町幕府が京都に置かれたのは、首府・鎌倉の凄惨な歴史に、為政者たち自らが加担してしまったことへの「怖れ」もあったかもしれない。武家の都として、また商都として繁栄を極めた鎌倉の地は、今や戦禍にまみれている。こうした大地の上で、鎌倉公方たちは果たして安穏と居を構え、日々をおくることができたのだろうか。
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# by jmpostjp | 2012-05-09 11:32 | Trackback | Comments(0)

夢うつつ  (18)自治都市の商館⇒武士の別荘⇒王侯貴族の迎賓館⇒寺?

 2012年3月25日(日)の日本経済新聞40面文化欄に、西洋史家・樺山紘一氏の「欧人異聞」というコラムがある。以下はその抜粋である。

 ホテル王リッツの迎賓館

 1897年、ロンドンの街は、女王ヴィクトリアの即位60年の記念祭でわきたっていた。国王が在位60年をむかえるのは、イギリス史上、最初のこと。世界に君臨する大英帝国の繁栄をことほぐ、このチャンス。世界中から、王侯貴紳もつどい、社交が盛大にいとなまれた。ちなみに、それから115年たった今年、英国民は、ふたたび女王エリザベス2世の60年祭を祝う。おめでとう。
 さて、かの社交の席を提供したのは、旧来の宮廷ではなく、あらたに近代都市ロンドンやパリに出現しはじめた巨大な高級ホテル。大胆な設計によって、ホテルの概念を革新し、さらにはイギリスに本格的なフランス料理をもちこんで、ホテル晩餐の水準を一気に向上させた。その仕掛け人というべきは、マネージャーのセザール・リッツ、そしてレストラン・シェフのエスコフィエ。
 リッツは、スイスの田舎生まれ。苦労してホテル・マン修行をつみ、まずはモナコの高級ホテルで支配人の地位を獲得。ここで地歩をかためると、スイスでもマネージャーとしての地位をえて、野心をもりたてた。料理人エスコフィエの参加もえて、理想の実現へ。
 19世紀も末、もう貴族の邸宅での豪遊は時代遅れになっていた。けれども、それに代わる場が、市民社会にはない。この空白地帯をうめようとばかり、リッツの構想が翼をひろげた。広壮な客室は宮廷仕様のインテリア。食堂は、最高のフランス料理を提供。ダンスルームは、いやが上にも豪華。しかも、ホテルには休日がない。日曜日は、昼間からダンス・パーティと饗宴。リッツの目論見は、見事に当たった。
 度重なるトラブルもあったが、ヨーロッパの主要都市に、あいついで建設。どれも国を代表する迎賓館となった。「ホテル王」の賛辞がよせられる。
 それから1世紀。リッツの地位はもう独占をゆるされない。だが、ホテルの理想形ばかりは、なおもそこに健在である。

 「過去は現在よりも常に素朴である」という先入観を捨てるなら(→【前項】)、私たちは鎌倉時代の商業的発展を見くびるべきではない。商業が現在よりもずっと独占を許されていた時代なら、商業民の財力は今よりずっと大きなものであった可能性がある(→【中世の商業・金融ネットワーク(2)悪党】・【中世の商業・金融ネットワーク(10)おそれかしこみ】)。  

 「鶴見寺尾図」の周辺には、平安時代は「師岡保」とよばれる一種の自治都市があった(→【神奈川の地名(4)『師岡佮良但馬次郎』】・【師岡保】・【「王の庭」と自治都市】)。源頼朝の時代では、近隣の「金沢・榎戸・浦河」3湊(→【「えの木戸は さしはりてみす」】)の商業的繁栄の恩恵に浴した。また1241年には、鶴見に安達義景の別荘が置かれていた(→【神奈川の地名(2)武家と貴族の輪舞】)。
 そして鎌倉末期には、『仏殿地(→【鶴見寺尾図の『仏殿地』~大倉山】)』・『北向きの巨大な寺(→【巨大な『寺』(1)秘密の御殿】)』・『祖師堂(→【『祖師堂』(1)二転三転】)』・『正福寺・阿弥陀堂(→【『本堺』(8)『正福寺・阿弥陀堂』の東西南北】 )』・『馬喰田(→【『馬喰田』と伯楽と白楽と】)』・『犬逐物原(→【中世都市鎌倉と『犬逐物原』】)』・『八幡宮(→【『ミチA』(5)『八幡宮』】・【とはずがたり(4) 新八幡】) 』・『白幡宮(→【大口台小学校と神ノ木公園(『白幡宮』)】)』等を有する一大都市に成長し、南北朝時代の1334年に3分割されたが、1363年には17坊もの別当に勤仕される「法華寺」があった(→【『祖師堂』(2)天台宗・熊野山全寿院法華寺】)。

 こうした自治都市を母体とする商都には、おそらく古来より国内外の商人が集住する商館があったはずだ(→【番外:会寧(フェリョン)の馬市】)。だがそうした商館も、史書を歴史に残すような貴族や支配階級からは、「悪党(→【中世の商業・金融ネットワーク(2)悪党】)」の館」などと呼ばれたかもしれない。
 しかし、例えば中世の地中海におけるヴェネツィアやジェノヴァなどの商業網は(→【商業ギルド(2)マグリブの商人とジェノバの商人】)、こうした商館(fondaco[伊]=factory[英]=trading house[米])を基礎として形成されたものである。
 当時の商館は単なる宿泊施設ではなく、取引の統制に必要な司法権や行政権をもち、取引は現地人仲介人を介して行われることが一般的であった。のちにポルトガルがオランダや東インドや日本などに設置した商館も、これと同様の機能を有していた(→【夢うつつ(13)「鴻臚館」】)。

 もちろん今となっては、「鶴見寺尾」の地に商館があったかどうかを証明する術はないが(→【宿坊港湾都市(1)オトタチバナヒメたちの宿】・【宿坊港湾都市(2)将軍来臨】・【「舘」・「観」・「宮」・「殿」~道教寺院】)、1334年の「鶴見寺尾図」には『馬喰田』があるから、近隣に馬の去勢技術を有する渡来系の職人集団が集住したことは間違いない(杉山神社→【鶴見神社(3)杉山神社と遣唐使】・【鶴見寺尾図幻影(8)修験道】)。
 なぜなら、競走馬としての牡馬を家畜や軍馬として利用する場合、一般に気性を抑えて扱い易くするために去勢を行うが(騸馬:せんば)、日本にはこの去勢技術が明治時代になるまでほとんどなかったからだ。つまり鎌倉時代に『犬逐物原』で見出された野馬(競走馬)を(→【夢うつつ(9)福島県相馬地方の「野馬追(のまおい」と鶴見寺尾図の「犬逐(いぬおい)」)」】)、『馬喰田(→【『馬喰田』と伯楽と白楽と】)』で軍馬や家畜として商うにはどうしても去勢が必要だから、『馬喰田』の周辺にはそうした技術集団がいた。
 また或いは、当時の渡来人たちが去勢技術を独占するために、その技術を門(国)外不出としていて、日本列島で入手できる騸馬は全て輸入品によっていたなら、馬の独占輸入を行う渡来系商人とそれらを各地域で独占的に販売する地場の仲買人には、尚のこと巨万の富と利権があった(→【番外:「王子」、別荘でジェット・スキ‐に乗馬】)。
 どちらにしても『馬喰田』で馬を商う人々は、現代の電力会社と同じく独占企業としてたっぷり肥え太り(→【中世の商業・金融ネットワーク(2)悪党】)、為政者にも強い影響力を行使することができた(東京電力→【夢うつつ(8)殷と縄文と「鶴見寺尾図」】)。
 だからこそ、幕府は1251年に鎌倉市中の商人数を規制したのだ(→【商業ギルド(11)座】・【「亀谷」(5)町屋】)。しかし人々の欲望は、「法」などという紙切れでコントロールできる代物でない(→【商業ギルド (9)銭貨の運用停止と鎌倉幕府の成立】)。美しい鎌倉の御殿や寺社の装飾は多くの人の欲望をかき立て(→【とはずがたり(7) 平頼綱と北条貞時邸】)、やがて「みなが欲するものを売って儲けて何が悪い」という風潮が過熱すると、じわじわと人心を惑わせてゆく(→【夢うつつ(11)商都と無縁】)。

 そこへ1256年の大風、1257年の地震、1259年の飢饉である。そして元寇(1274年・1281年)を挟んで1280年に大火。さらに1293年の大地震、1302年の大火である(→【商業ギルド(8)天災と都市整備】)。
 こうした混乱期の1282年に「円覚寺(→【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】)」が、1285年に「東慶寺(→【『祖師堂』(3)鎌倉尼五山・第二位「東慶寺」】)」が建立された。円覚寺が元寇の犠牲者を敵味方なく弔うというのは、おそらくは地元商人や渡来系商人たちの悲願でもあり、また商業ルートの安定を早期に回復させる手段でもあっただろう。商人たちは寺の造営や安定運営に資金や技術の提供をおしまなかったはずだ。
 そして1284年、もともと北条氏の私寺として始まった円覚寺が、親王将軍の祈祷所とされると(→【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】)、これはまるで大宰府の鴻臚館(→【夢うつつ (13)「鴻臚館」】)の再来である。鎌倉商人たちは俄かに色めきたったに違いなかった。

 もう少し、妄想を続けよう。
 「円覚寺」が親王の祈祷所となれば、親王の接待宮が必要となる。街道を挟んだ「東慶寺」は、その立地と規模において最適だった(→【『仏殿地』と『北向きの巨大な寺』】)。だからこの2寺の往復路は、京風に条里制を模して飾られた(条里制→【鶴見寺尾図の用水路(2)条里制】)。接待宮には親王の後宮もあっただろう(→【宿坊港湾都市(4)宮将軍の後宮?】)。
 親王の御成りがあれば、付近の下級武士たちも動員され、にわか作りの盛装で、その場を盛り立てたかもしれない(子安足洗川・大口袴→【鶴見寺尾図の用水路(13)「浦島丘」・「白幡」の地名の由来】)。今や鎌倉武士や鎌倉商人は、幕府だけでなく宮家とも密な関係を築きはじめようとしていた。

 しかし1333年の戦禍によって、親王将軍が鎌倉で薨じると(→【中先代の乱(1)征夷大将軍・護良親王の死】・【中先代の乱(5)鶴見合戦ふたたび】)、後には接待宮と接待宮の職員、後宮の女性、そして親王の子女だけが残された(→【市をめぐる誇大妄想(23)逆縁の皇子】・【市をめぐる誇大妄想(24)皇宮流転】)。
 接待宮の造営は、地場の職人たちが丹精を込めて行ったものだ。接待宮の職員も京都から派遣された親王の女官などを除けば、多くは地元有力者の血縁である(ヒルトン小田原→【夢うつつ (13)「鴻臚館」】)。後宮の女性には冷泉為相の娘などもいたが(→【藤谷殿(とうこくどの)】)、ほとんどは近隣諸国の有力者たちの娘だ。まして年端のいかない子供たちもいる。
 
 戦乱を生き延びた地元住民たちは、この主を失った接待宮の扱いに当惑しながらも、古い奈良時代の歴史に倣い、接待宮を「法華寺」と名付けて、近隣寺院が輪番で寺に勤仕しながら残された婦女子の生活を担保することになったのではなかったか(→【市をめぐる誇大妄想(15)橘樹寺】・【市をめぐる誇大妄想(16)たちばな)】・【『祖師堂』(2)天台宗・熊野山全寿院法華寺】)。
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# by jmpostjp | 2012-03-31 18:17 | Trackback | Comments(0)