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文化庁のHPによれば、金沢文庫に収蔵の重要文化財「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」は、「建長寺塔頭正統庵領であった鶴見・寺尾両郷に関する境界論に際して、南北朝初期に作成された絵図」だという(→【重要文化財「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」】)。
【前項】では、「建長寺塔頭正統庵」と呼ばれうる人物について推測してみたが、さらに建長寺の「正統庵」には、もうひとつ非常によく似た呼称が存在する。それが「建長寺正續(続)庵」である。 「正統庵」と「正續(続)庵」は、ワープロやタイプライターがなく毛筆で書写した時代なら、それが故意であれ不注意であれ、簡単に読み間違えや書き違えが起こりうる字面である(「鶴見寺尾図」のなかにも、「子ノ神」を「子安郷」へと加筆修正したようにみえる箇所がある。→【観音山に昇る月】・【『性園堀籠』と松蔭寺】・【鶴見寺尾図のミチを辿って】・【中世の商業・金融ネットワーク(11)『小笠原蔵人太郎入道』・『三嶋東太夫』・『子安郷(子ノ神?)』】)。 「建長寺正続庵」と呼ばれる人物は、言わずと知れた円覚寺開山の中国人僧・無学祖元(→【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】・【『祖師堂』(3)鎌倉尼五山・第二位「東慶寺」】)だ。 鎌倉・建長寺の北、現在の横須賀線「北鎌倉駅」近くに、鎌倉街道をはさんで「東慶寺(→【『祖師堂』(3)鎌倉尼五山・第二位「東慶寺」】)」と向き合う格好で、臨済宗円覚寺派総本山「瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさん・えんがくこうしょうぜんじ)、通称「円覚寺(えんがくじ)」がある。 本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗(→【霜月騒動(11) 執権の執事vs 将軍の家人】・【『仏殿地』と『北向きの巨大な寺』】)である。 円覚寺は、1282年(弘安五年)に北条時宗が中国より無学祖元禅師を招いて創建された。時宗は禅を弘めたいという願いと、蒙古襲来(→【霜月騒動(6)むくりこくり】・【霜月騒動 (5)「元寇」前夜】)による殉死者を「冤親(中国語:yuanqin 仇敵と味方)平等」(敵味方を区別せず)に弔うために円覚寺建立を発願した、といわれる。円覚寺の寺地は、弘安元年(1277年)に蘭渓道隆とともに定めてあった(→【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】)。 「円覚寺」の名は、起工の際に地中から「円覚経(=大方広円覚修多羅了義経:中国で8世紀初旬頃に編纂された)」を納めた石櫃が出てきたことによる。また「瑞鹿山」の 山号は、無学祖元が仏殿開堂落慶の折、法話を聞こうとして白鹿が集まったという奇瑞からつけられた、という。 無学祖元の法灯は、高峰顕日(→【前項】)、夢窓疎石と受け継がれ、室町時代には鎌倉五山第二位に列せられ、日本の禅の中心的存在として五山文学や室町文化に影響を与えた。 円覚寺は創建以来、北条氏をはじめ朝廷や鎌倉幕府の祈願所(→【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】)として発展し、寺領の寄進などを受けて経済的基盤を整えながら、鎌倉時代末期には伽藍が整備された。鎌倉時代にはすでに中国をまねた五山制度があったが、当時の円覚寺の序列は定かではない。 幕府滅亡後は、夢窓疎石(→【前項】・【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】)が住職となり、後醍醐天皇(→【中世の商業・金融ネットワーク(2)悪党】・【霜月騒動(7) 杭州~博多~紀伊】・【「二階堂谷」と「永福寺」】・【「建武の新政」期の都市】・【観音山に昇る月】)の力もあって繁栄し、42の支院を持つ寺となった。 しかし、 室町~江戸時代に幾たびかの火災に遭い、特に1526年(大永6年)の里見実堯の来襲で大きな打撃をうけて、全山が焦土と化した。それを江戸末期(天明年間)に大用国師(誠拙周樗)が僧堂・山門等の伽藍を復興し、今日の円覚寺の基礎を築いた。 伽藍は、1334年または1335年の「紙本淡彩円覚寺境内絵図」による七堂伽藍の形式が伝わっており、 山門(三門)、仏殿、方丈が一直線上に並ぶ「禅宗様式」である。 円覚寺には、開山・無学祖元の塔所としての「正續院(開山塔)」がある。本尊は文殊菩薩、鎌倉地蔵巡礼の第13番札所(手引地蔵)でもある。 「正續院」の地には、もともと1285年(弘安八年)に9代執権・北条貞時(→【とはずがたり(7) 平頼綱と北条貞時邸】・【とはずがたり(8) 乳母】)が仏舎利を納めるために建立した「祥勝院(しょうしょういん)」という堂宇があった。 1286年(弘安八年)に無学祖元が建長寺で示寂すると、建長寺に正続庵が創設されたが、1335年(建武二年→【建長寺正統庵領鶴見寺尾郷】・【1239年「鳥山の開発」と1334年「鶴見寺尾図」】)に、後醍醐天皇の勅命で夢窓疎石が円覚寺舎利殿を無学の塔頭とし、建長寺の「正続庵」には浄智寺第十四世高峰顕日の塔所を移して「正統院」とした。 円覚寺の舎利殿は「正続院」の中心となる建物だが、当初の舎利殿は、1563年(永禄六年)の火災で焼失し、現在の舎利殿は、西御門にあった尼寺「太平寺」の仏殿を移築したものである。(この建物は我が国最古の禅宗様建築物といわれ、神奈川県唯一の国宝に指定されている。) 円覚寺には、現在二つの池がある(現在と江戸時代の「円覚寺境内図」と1335年の「紙本淡彩円覚寺境内絵図」)。鎌倉道に面する「白鷺池」と舎利殿前の「妙香池」がそれである。 「白鷺池」の名は、宋から日本に渡った無学祖元が寺院の立地を探していたところ、白鷺に導かれてこの湿地に辿りついたことにちなむ、という。「妙香池」は夢想礎石の造園による方丈庭園の一部となっている。 さらに3つ目の池として、かつては「正続院(開山堂)」の裏に、「宿竜池(しょくりゅうち)」と呼ばれる池があったとされ、無学祖元が来日する際、舟を守護していた竜がここに宿した、といわれている。 関東地方で最大級を誇る円覚寺の国宝「梵鐘(洪鐘)」は、正安三年(1301年)に北条貞時が物部国光に鋳造させたものだが、材料の金銅は、江の島弁財天の加護でこの「宿竜池」の底から得たとされ(円覚寺の鎮守として弁財天を祀る「弁財堂」が今も置かれているのはこのためだ。)、それにより正続院の客殿は「宿竜」と呼ばれ、室町時代には足利義光により円覚寺正統院殿堂の「普現・宿龍・桂昌」の額字(国の重要文化財)が書かれた。 また円覚寺には、円覚寺の大檀那であった北條時宗・貞時・高時を祀る「開基廟(「佛日庵御霊屋」とも呼ばれる)もある。時宗は、円覚寺建立の2年後~弘安七年(1284年)四月四日に没したが、「開基廟」は時宗の没後に建立されたようで、現在の開基廟は江戸時代の文化八年(1811年)に改築されたものという。 「祥勝院(しょうしょういん)」と「正統院(しょうとういん)」~この二つは音が非常によく似ている。 「正統院(庵)」と「正続院(庵)」~この二つは字面が非常によく似ている。 いつの時代もそうだが、物事があいまいに語られる場合は、どこかに嘘が混じっている可能性がある。現在の円覚寺は1334年(または1335年)の絵図に従って再建されたものだが、もしかすると、それは鎌倉時代の円覚寺と同一でない可能性もある。 中国大陸の宋王朝の滅亡や鎌倉幕府の滅亡を機に、北条氏や渡来人たちが鎌倉で築き上げた莫大な財の寄進をめぐって、寺同士がきな臭い利権闘争に走った、という感がなくもない。 *参考資料:円覚寺公式HP 臨済禅・黄檗禅公式HP 「鎌倉史跡案内道標」 「鎌倉手帳別冊OKADOのブログ」
12月23日は天皇誕生日、国家の祝日である。これに合わせたわけでもないだろうが、2011年12月23日(金)の日本経済新聞朝刊一面に、
「皇室典範改正を検討 政府 女性宮家創設 視野に」という見出しの記事があった。 少し前の12月11日付朝刊にも、この問題に関する記事があり、本文の横に皇位継承に関する資料的短文が併記されていた。以下は、その短文の抜粋である。(*部は、筆者による加筆。) 現在は230年直系~「男系より重要」の声も 皇位の継承は古代から近世まで子や孫への直系継承と、兄弟・親戚への傍系継承が交互に行われてきたが、男系が条件とされた記録はない。皇室に限らず、家制度のもとでは男子が継承する習慣があったため、あえて明文化されなかったとみられる。 むしろ南北朝時代の公卿、北畠親房(*→【観音山に昇る月】・【「建武の新政」期の都市】)が『神皇正統記』で唱えた「正統(しょうとう)」が重視された時代があった。これは直系継承の天皇こそ正統であるという思想。中世の天皇が若いうちに譲位をして院政を敷いた動機の一つに、自己の直系の系統を早めに確立しておくことがあった。 現在の皇室は江戸時代の1780年に即位した光格天皇から7代、約230年間直系の天皇が継承してきた。これだけ長く直系天皇が続いたのは日本史上まれだ。 男系が継承の条件として初めて明文化されたのは1889年に制定された明治憲法と旧皇室典範。当時は男系が途絶えた場合を想定し、女系も認めるべきだという議論があった。明治初期までは男系が絶対の原理と考えられていなかったといえる。 「万世一系」という綱渡りのような制度を維持するため、皇室は時代に応じて柔軟に継承方法を変えてきた。皇室研究の専門家には「近代以降の天皇は直系で続いており、国民もそこに親しみをもっている。男系よりも直系を重視すべき」という意見もある。 この問題は、もう随分長く提起されてきたことで、いまさら話題にするのは遅きに失する感があるし、そもそもやんごとなきご一族のお家問題について、赤の他人である下々の者が議論することができるのかも、私にはわからない。またどのような家であっても、相続について他人にとやかくいわれることは好まない、という気もする。 しかし、そうした束縛から逃れられないのが「王」・「宗主」・「名家」・「名門」といったセレブリティ(→【番外:「王子」、別荘でジェット・スキ‐に乗馬】)の宿命だ。名家の存亡は、そこに関わる人々に様々な利害を及ぼさずにはいられない。 例えば宮内庁のHPをみると、平成23年度の皇族費総額は2億8,823万円だが、宮内庁費(宮内庁運営のための人件費・事務費など)には、107億8,557万円が使われている(→宮内庁HP・予算)。仮に皇室が存続できなければ、宮内庁は組織もろとも廃業となるだろう。 またあるいは、仮に東京電力が倒産すれば、経済産業省なども極上の天下り先を失うことになる(→【夢うつつ(8)殷と縄文と「鶴見寺尾図」】)。セレブと利権団体は、往々にして持ちつ持たれつの関係に陥るものだ。 さて鎌倉時代のセレブといえば、まずは源氏があげられる。しかしその源氏は3代が征夷代将軍を世襲したのちに滅亡している(→【「亀谷」(2)乙姫の墓】)。次に有名なのは、北条氏だろう。しかしこの一族もまた、鎌倉幕府の崩壊とともに離散した(→【寺と地図(8)極楽寺新造山庄】・【霜月騒動(3) 安達泰盛と北条時頼】・【とはずがたり(7) 平頼綱と北条貞時邸】・【夢うつつ(12)地域の空洞化と鶴見合戦】)。そして鎌倉幕府が倒れると、ついには天皇家までが南北朝に分裂し、南朝のご落胤たる親王将軍は鎌倉で薨じる(→【中先代の乱(1)征夷大将軍・護良親王の死】)。 こうしたことに関して様々な記録があるということは、それが血族外の「部外者」にとっても重要な情報であったということだ。「名家」の莫大な資産の恩恵に浴する多くの「部外者」にとって、「名家」の威光はなくてはならないものだった。 ところで文化庁のHPによれば、「鶴見寺尾図」は「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」と名称され、「建長寺塔頭正統庵領であった鶴見・寺尾両郷に関する境界論に際して南北朝初期に作成された絵図」とある(→【重要文化財「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」】・【建長寺正統庵領鶴見寺尾郷】)。 ここでいう「建長寺塔頭正統庵領」の「正統庵」とは、果たしてどのような人物を指すのだろう。1334年に「正統」と称される可能性のある人物なら、征夷大将軍の継承者や、またあるいは天皇家の血族などが考えられるかもしれない。 その両方の条件を備えるのは、建武政権下で征夷大将軍となった護良親王だが(→【中先代の乱(1)・(2)・(3)・(4)・(5)】)、「庵」号が付くことに注目するなら、1333年の鎌倉幕府滅亡時に鎌倉で出家して、まもなく薨じた守邦親王(→【とはずがたり(8) 乳母】)の可能性も高そうだ。そして勿論、現在も鎌倉の「建長寺正統院(しょうとういん)」に祀られる高峰顕日(こうほうけんにち:1241年-1316年)も、後嵯峨天皇(→【「亀谷」(6)宗尊親王の御所】・【関東申次と西園寺家】・【とはずがたり(1)後深草院二条】・【とはずがたり(5) 惟康親王の追放】)の第二皇子だから、最有力の候補になる。(高峰顕日の塔所はもともと浄智寺にあったが、建武二年、つまり1335年に後醍醐天皇の勅命で夢窓疎石によって無学祖元の塔所であった建長寺正続院の跡地に移された。同時に正続院は円覚寺に移されている。) そもそも「鶴見寺尾図」の域内には、ヤマトタケルの昔から「将軍」にまつわる伝承が多く残る(→【宿坊港湾都市(2)将軍来臨】)。 仮に、当地が「将軍の別荘」として管理された時代があったなら、その「将軍」が誰であっても、また「将軍」が不在であっても、地域と管理者には大きな利権があったことは想像に難くない。鶴見の地で1333年と1335年に2度も「鶴見合戦」が起こったのは、当地の莫大な利権をめぐって激しい争奪戦があった、ということを示すのかもしれない(→【中先代の乱(5)鶴見合戦ふたたび】)。 いつの世も、セレブ興亡の陰で、下々の者もまた、生き残りを賭けた死闘を繰り広げた。 大きな問題が表面化するとき、その咎を当事者やトップにだけ負わせるというのも、少し理不尽な気がする。問題の地下には、イモ蔓式に悪の根が広がっている、と見たほうがいいし、あなたも私も、もしかするとその複雑な根っこの末端に絡めとられている可能性は否定できない。 私たちの眼に映るこの「うつつ」の世界も、実は砂上の楼閣のようなもので、常に危ういバランスの上に刹那に顕現するだけであって、「真のかたち」などというものは初めから存在したことがない、と言うことだろうか(無学→【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】・【夢うつつ(10)色即是空 空即是色】)。 *参考資料:宮内庁HP
20011年11月11日(金)の日本経済新聞・社会欄にこんな記事がある。以下は、その抜粋である。(*部は、筆者による加筆)
鴻臚館 瓦製造の窯跡 福岡で発見 建物の変遷解明に期待 平安時代までの迎賓館 福岡市教育委員会は10日、平安時代までの迎賓館「鴻臚館(こうろかん)」(福岡市中央区)の瓦を製造していた9世紀後半~10世紀前半の窯跡=写真(*省略)=を同市西区で発見したと発表した。保存状態が良好で「瓦の生産体制や規模を推定でき、鴻臚館の建物の変遷や、当時の政府の経済力を解明するための貴重な資料」としている。 鴻臚館は中国や朝鮮半島の外交使節や商人を迎えたほか、遣唐使(*→【霜月騒動(7) 杭州~博多~紀伊】・【鶴見神社(2)「入唐求法巡礼行記」】・【鶴見神社(3)杉山神社と遣唐使】。聖福寺→【蘭渓道隆】*長崎の興福寺→【唐寺(とうでら)と開港地】)らが海外に渡る拠点になった。平安時代には平安京、難波、筑紫(*→【官家(みやけ)と大宰府】)の3ヶ所に設置され、存在が確認されているのは福岡市の筑紫の施設だけ。 今回、見つかった窯跡は3基で鴻臚館跡から西に11㌔の丘の西斜面を掘って作られていた。全長4.3~6㍍、幅1.5~1.6㍍、高さ1㍍で1基は一度に瓦500枚を製造できたとみられる。約10年間、操業した模様。周辺には整地した跡や廃棄した灰もあり、粘土の採取から成型、焼成までを手掛ける工房があったと市教委はみている。 「鴻臚館」は、古代日本の朝廷が唐の外務省にあたる鴻臚寺の迎賓館を模倣し、外国使節の接待や朝廷官人(→【宿坊港湾都市(4)宮将軍の後宮?】)との交歓や貿易の拠点として、大宰府・難波・平安京に設置した客殿である(しかし平安京と難波のものは早い時期に消滅)。7世紀後半からみられ、弘仁年間(810-824年)頃には唐風に「鴻臚館」と改称された。8世紀以降は、外国商人や入唐(宋)僧の滞在施設として使用され、11世紀頃まで存在したとみられる。同様のものに、越前敦賀津(→【市をめぐる誇大妄想(26)高麗船】)の渤海使(→【商業ギルド(10)大陸間貿易】)の滞在施設「松原客館(気比神社が管理。919年には荒廃。)」や、能登福浦津の「能登客院(造営計画のみか?)」がある。 私は、鶴見寺尾図に描かれる『巨大な北向きの寺(→【巨大な『寺』(1)秘密の御殿】)』を、鎌倉時代には幕府の権力者やそれに付随する人々が、中国大陸からの渡来僧や大商人たちと交歓するために「接待宮殿(→【夢うつつ(2)VIP専用市場】・【中先代の乱(3)東光寺・理智光寺】・【建長寺正統庵領鶴見寺尾郷】)」として使用したのではないかと想像するが、そうした建物も、平安時代なら筑紫の「鴻臚館」のように、より公的な性格を有する「迎賓館」であった可能性は高いと思う(→【城と城郭都市】・【海城】・【中世の山城】・【中国の道教式城郭都市】)。 但し、そうした「迎賓館」が大和朝廷による「官立」のものか、地元有力者による「私立」のものか、悪党・外人・富豪浪人らによる「共立~今風にいえばファンド的」なものかはわからない(→【中世の商業・金融ネットワーク(2)悪党】・【中世の商業・金融ネットワーク(10)おそれかしこみ】・【商業ギルド(11)座】)。さらに言えば、こうした場所もずっと起源をたどれば、寺社などが国家権力の外に所有した「私有地」あるいは「誰のものでもない場所(*→【「舘」・「観」・「宮」・「殿」~道教寺院】・【私寺】・【仏教伝来】・【宿坊港湾都市(3) the third place】)」に行きつくのかもしれない。 土地や建物を上手く管理・運営するためには、知力も財力も人材も必要だ。だから地域社会は、寺社、国、地主、「悪党(→【中世の商業・金融ネットワーク(2)悪党】)」などの誰であれ、有力者を地域に引きつける努力を怠るわけにはいかない。しかし、政変・戦乱・天変地異などがあったり、土地の魅力が薄れたりすれば、トップは瞬く間に交換される。それは地域運営の真の母体が、名目上のトップではなく、地元の利権者であるせいだろう(→【前項】・【夢うつつ(5)薪伐る鎌倉山の木垂る木の】)。 鶴見寺尾図の域内が、1334年に『子安郷(子ノ神?)』・『末吉領主三嶋東大夫』・『寺尾地頭阿波国守護小笠原蔵人太郎入道』の3者によって分割され、「押領」された~つまり安く買いたたかれたのは(→【重要文化財「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」】・【くり返し使用される絵図】・【『犬逐物原』と『海岸線』のある領域】・【『性園堀籠』と松蔭寺】)、1333年に鎌倉幕府が崩壊し、幕府や幕府との癒着で利権を得ていた有力団体が失墜したことや、当地が「鶴見合戦」の戦場となったことが原因だろう(→【夢うつつ(12)地域の空洞化と鶴見合戦】)。結果、広大な「鶴見寺尾図」の域内を(→【宋の測量技術・記里鼓(キリコ)と東海道】)・【鶴見寺尾図のミチを辿って】)1者(あるいは1団体)で管理することができなくなっただけでなく、絵図に描かれた『巨大な寺(→【巨大な『寺』(1)秘密の御殿』】)の維持も難しくなり、複数の「院家」や「坊」が持ち回りで人を手配せざるをえなくなったのではないだろうか(→【『祖師堂』(2)天台宗・熊野山全寿院法華寺】)。 ところで、同11月11日の日本経済新聞では、35面の「神奈川・首都圏経済」欄に、「ヒルトン小田原リゾート&スパ(神奈川県小田原市)」の施設を、アメリカのヒルトン・ワールドワイドが小田原市から9億円で買い取る、という記事も掲載されていた。 このホテルは、もともと厚生省の天下り団体である旧「雇用・能力開発機構」が、1997年に455億円という巨額の税金を使って建設した「スパウザ小田原」が前身だが、そこには厚生族、建設族だけでなく、農政族も大いに関係していた。 というのも、この施設の用地は、もともと小田原市根府川地区のみかん園であり、1988年の「日米牛肉・オレンジ交渉」でオレンジが輸入自由化されることの対策として、みかん園の転換跡地利用を促すという名目で「スパウザ」を建設しているからだ。 しかし、いざ施設が稼働すると、公共施設としての安い利用料金設定が近隣の民間観光施設の営業を圧迫するとの苦情を受けたりしたこともあって、2003年、同施設と土地は8億5000万円で小田原市に売却される。そして当然のことながら、こうした豪華な施設は、経営理念もなければ運営ノウハウもない小田原市の手に余り(→【『祖師堂』(2)天台宗・熊野山全寿院法華寺】)、市は運営委託企業を公募、04年よりヒルトンが年間4億3000万円の賃料で借り受けて営業していた。 そこに、この度の大震災と原発事故による観光業の不振である(→【夢うつつ(12)地域の空洞化と鶴見合戦】・【夢うつつ(8)殷と縄文と「鶴見寺尾図」】)。市はヒルトンに4~6月の賃料を免除するなどの特例措置を施したが、同施設に関してこれ以上の負担は重すぎるとして、市議会が2011年12月までに敷地(23万平方メートル)と建物をヒルトンに売却することを決めたという(→【鶴見寺尾図の用水路(7)鶴見合戦】)。 455億円-9億円=446億円。 建設費用455億円の財源は、雇用保険料のうちの「事業主負担分から拠出」という言い訳をしているが、それとて、もとをただせば国民が働いて作り出し、労使双方の合意のもと自らの将来に備えたお金である。そのうちの446億円が、15年を待たずに雲散霧消してしまうとは!そしてこうした損失を、国家、自治体、利権団体等は、補償する必要もなければ、詫びる必要もないとは! 「企業のコンプライアンス(法連遵守)」がどうの、などと行政指導をする「お上」にも、もはや道徳観念もなければ仁義もない。勿論、経営理念などとは、はなからない。 こうした社会で、文科省が将来を担う子供たちに対して「徳育」を説くというのもあんまりな気がするし(→文部科学省HP)、「ライブドア事件(→【中世鎌倉の市場と北宋の市易法】」の顛末などに後味の悪さが残るのも、無理からぬことのように思われる。 人々の心や行動は、常に建前と本音、うそとまことの間で両極に引き裂かれる。心を病む人が増えるのも道理だ(年間3万人超の自殺者→【夢うつつ(12)地域の空洞化と鶴見合戦】)。 *追記:2011年12月3日(土)付の日本経済新聞「神奈川・首都圏経済」欄によると、12月中旬に予定されていた「ヒルトン小田原リゾート&スパ」の買収時期は延期される、という。延期期間は明らかにされていないが、ヒルトン側は売却の方針に変更はない、としている。これにより、5日に開催の市民説明会は中止される。 *参考資料:ウィキペディア「ヒルトン小田原リゾート&スパ」・「ライブドア事件」 文部科学省HP「子どもの徳育の充実に向けた在り方について」
9月29日(木)に、時事通信社がこんな記事をネットで配信している。以下は、その抜粋である。
「愛犬に毎年1500万円? =金総書記が超豪華生活-韓国議員」 [ソウル時事] 韓国与党ハンナラ党の尹相現(ユン・サンヒョン)議員は29日、国会の外交通商統一委員会に提出した資料で、北朝鮮の金正日総書記ファミリーが飼っている犬やその餌、犬用のシャンプーや医薬品といった関連用品の輸入に毎年10万~20万ドル(約760万~1520万円)を使うなど、超豪華生活を送っているとの情報を明らかにした。 尹議員が集めた情報によると、ファミリーは2009~10年に米国製のジェットスキー約10台を買い、江原道元山などの別荘で金総書記の三男・正恩(ジョンウン)氏が使っている。昨年10月にはロシアから乗馬用の馬数十頭を輸入したという。 09年には中国からジョニーウォーカーの青ラベルなど高級ウイスキー200本、昨年はフランスの最高級ワイン600本余りをそれぞれ購入し、金総書記が開く宴会で供されたという。 同様の記事は、翌30日の日本経済新聞・国際欄にも掲載されていた。 この日、新聞と一緒に我が家に投函された、東急東横線・大倉山駅(→【鶴見寺尾図の『仏殿地』~大倉山】)近くにあるホームセンターの折込広告では、ちょうどペット用品の安売りを宣伝していて、成犬用のペットフードが6.5kgで2,279円、ダイエット犬用は8kgで3,479円、ペット用デオドラント・シートがレギュラーサイズ96枚で1,179円となっていた。 ペット用品の値段は、いまや人間の子どものベビー・フードや紙おむつ(Mサイズ64枚が1,180円)と同じくらいに高価だが、それらが量販店で販売されるのは、日本にそれだけの需要があるということだ。近頃ではペットの葬式や墓も「販売」されており、「犬公方」と揶揄された徳川5代将軍・綱吉も、このような日が訪れようとは夢にも思わなかったに違いない。 隣国の「プリンス」が、別荘でジェット・スキーを楽しんだとか、乗馬用の馬を輸入したとかいっても、一国に「王(総書記)」は一人、「王子(息子)」が100人もいるわけではない。ジョニー・ウォーカーの青ラベル(1万円位)クラスの洋酒も、日本なら中元・歳暮の時期でなくても売れるだろう。国税庁発表の資料によれば、2009年の日本のウィスキー+ブランデーの消費総量は92,000KL、果実酒(ワイン等)の消費総量は240,000KLだから、ペットやレジャーに費やされる一国あたりの総費用は、北朝鮮に比べれば、日本が桁違いに多いことは間違いない。 「贅沢」や「浪費」というものは、「比較」、「程度」の問題だ。世界には、経済的に豊かでありながら残虐な犯罪や自殺者の続出する国もあれば(→【前項】)、程々の金で楽しく過ごしている国もあり、また食うや食わずの貧困にあえぐ国もある。日々の食事を心配する国の人から見れば、日本は圧倒的な「浪費大国」だ。 2011年10月15日、G20の会議がパリで開かれることに合わせたかのように、ニューヨークだけでなくローマ、ロンドン、マドリード、フランクフルト、ブリュッセル、東京、香港、台北、ソウル、シドニーなどの各地で、「反ウォール街」・「格差是正」・「反緊縮財政」・「原発全廃」など様々な主張を掲げるデモが同時に行われた。 果たして「怒れる市民」たちは、社会の将来を憂い、社会の不正に怒っているのか。それとも隣の芝生が青いことや雑誌やテレビに映る王族やセレブの贅沢な生活を妬み、自分の利権が守られないことに怒っているのか。あるいはまた、何か隠然たる力によって、わかりやすそうなスローガンへ向かって扇動されているのか。私にはわからない。 例えば、「格差是正」といえば素晴らしいことのように聞こえるが、どのような場面においても格差はある。AとBの二人が並べば、身長の高低についてさえ、直ちに体格差が生まれるのだ。そのような格差の「是非」や「優劣」を、一体誰が問うているのか。「格差」に「優劣」や「是非」はあるのか。 そもそも私たちは、蟻のように皆が黒い服を着て、巣穴から餌場へ隊列を組んで往復することに、喜々として満足できるだろうか。人間の脳は蟻よりもずっと複雑だから、そのようなモノポリーに、人はおそらく満足できない。それを昔のインドの哲学者たちは、人間の「業(ごう:サンスクリット~古代インドの雅語・梵語~の「karman」を漢訳したもの)」と名付けた。(サンスクリット→【市をめぐる誇大妄想(28)日本語】) 世界は多様だ。 「怒れる市民」として立ち上がる時、私たちは自分が何について怒っているのか、今一度、自分の心に問いかけてみるべきかもしれない。自らの、或いは誰かの飢えに怒っているのか。社会の不正に立ち向いたいのか。それとも別荘暮らしを妬んでいるだけ、馬に乗ってみたいだけ、愛に飢えているだけ、誰かに認められたいだけなのか。 怒りや対立からは何も生まれない。それは長く繰り返されてきた戦争の歴史を見ればわかることだ。それでもなお、その怒りが正当であると考えるなら、私たちは何かに扇動されたり、エネルギーを無駄に浪費したりすることを注意深く避けなくてはならない(鎌倉の武士たちのように、最後はみんな「討死」では、歴史を学ぶ甲斐もないというものだろう)。そして皆で知恵を共有し、解決すべき問題の目標を定めて、粘り強く学び、闘い続ける覚悟が必要だ。 ところで鎌倉時代の「鶴見寺尾図」の域内において、『馬喰田(→【『馬喰田』と伯楽と白楽と】)』で馬を飼い、『犬逐物原(→【中世都市鎌倉と『犬逐物原』】)』で「犬逐物」の神事や遊興にふけることができたのは、一体どのような人たちであったのだろう。 平安貴族の力が弱まったとはいえ、中世はまだ「超・格差社会」である。貴族や上流公家には年官・年爵が給与されるという経済的優遇法があり(*→【えの木戸は さしはりてみす】)、一方で武家階級は成り上がってもすぐに相続争いや所領争いで弱体化する一族がほとんどで、鎌倉時代に着々と代を重ねて貴族に匹敵する富を築いたのは北条氏くらいだった(*→【とはずがたり(8) 乳母】)。 大陸直輸入の馬を駆って遊び、大陸風の衣装を身にまとって権勢を誇り、豪華な『寺(→【巨大な『寺』(1)秘密の御殿】)』に集って宴飲することができたのは、王子に匹敵する地位にある人、貴族、北条氏一族(*→【寺と地図(8)極楽寺新造山庄】、そしてその取り巻き連中くらいのものだったかもしれない(→【番外:「洛中洛外図屏風・飛鳥井邸」】)。 でもそうした地位になくても、その別荘を管理・経営する人たちには、莫大な利権があった(→【宿坊港湾都市(2)将軍来臨】)。
2011年9月9日(金)の日本経済新聞「大機小機」に、こんな記事がある。以下はその抜粋である(*部は筆者による加筆)。
「空洞化のプラス面」 国内経済の空洞化が懸念されている。企業活動が海外に移るとその分、国内の所得創出・雇用機会が失われてしまうという議論である。その気持ちはよく分かる。しかし、次のようなプラス面も考えてみてはどうか。 第1は、企業活動のグローバル化である。空洞化論の出発点は、企業活動が国境を越えて広がっていくことだ。世界的なグローバル化の時代にあって、これは必然的な趨勢である。空洞化が心配だからといって国内企業のグローバル化を止めることは、国内企業の成長可能性を枠にはめることになる。 日本企業の海外進出を抑えこもうとするよりは、海外企業の日本進出を促進すべきではないか。そうすれば、グローバル化の流れを促進しつつ、国内経済の空洞化を防ぐごとができる。 第2に、ある程度の空洞化は必要である。今後の長期的な日本経済の先行きを考えると、一方では労働力が足りなくなり、他方では、医療・介護・福祉などの新たな需要が出てくる。すると、ある程度は拠点を海外に移し、それによって浮いた分を新しく伸びてくる分野に振り向けなければならなくなる。 この時、本当に懸念すべきなのは、日本の国内資源(特に労働力)の流動性が低く、抜けて行った分野の穴が埋まらないことだ。企業が海外に出てゆくのを防ぐことより、ほかの分野を伸ばしてその穴を埋めてゆくべきだ。そうすれば、時代の要請にあった産業構造になるはずだ。 第3は、制度間競争を活発化させることだ。グローバル化が進み、国境の垣根が形骸化する中で、各国は経済のリード役となる国外の企業を誘致しようと競い合っている。そのためには企業が活動しやすい制度的環境の整備が必要だ。税制、金融規制、各種参入規制などがそれである(*→【中世鎌倉の市場と北宋の市易法】)。 もちろん日本もそうした制度間競争の渦中にある。空洞化の脅威が高まれば、政治家も政府もこの競争に本腰を入れざるを得なくなる。これは結果的に、企業が活力を発揮しやすい環境整備につながるだろう。出て行こうとする企業を、出て行かないように説得するのではなく、企業が進んで国内にとどまるような環境整備を図るべきである(*→【鶴見寺尾図の用水路(9)三ツ池公園】)。 海外投資を呼び込み、国内の資源の流動性を高め、制度間競争に応えていけば、空洞化の脅威を経済の活性化に結び付けていくことができるのではないか。 (隅田川) 鎌倉時代末期~南北朝時代にかけての「鶴見寺尾図」の域内には、『犬逐物原(→【中世都市鎌倉と『犬逐物原』】)』という凋落寸前の神事を行う神域(競技場)があった。この頃の「犬逐物」は戦法としては時代遅れの廃物と化し、一連の行事は神事の名を借りた賭博・遊興に陥っていたが、鎌倉は現在の東京などと同じく一大消費都市で(→【中世鎌倉の市場と北宋の市易法】)、各地から食い扶持をもとめて流入する独り者(無縁者→【前項】)も多かったから、「遊興」に落ちる金銭もそれなりのボリュームがあっただろう。 つまり鎌倉時代末期の「犬逐物」にかかわる利権産業は、今風に言えば既に「空洞化」していたが、集金マシーンとしてはそれなりのパフォーマンスを示していたため、止めるに止められない状況にあったと、考えることができる。(現代の日本にもそうした産業はたくさんあり、存続のために税金から補助を受けようと画策している。) 一方で、『馬喰田(→【『馬喰田』と伯楽と白楽と】』には、成長余力があった。身分制度の呪縛から解放された新興勢力が「一所懸命」に武士階級に参入し、のし上がった人々はステイタス・シンボルとして馬を欲してくれたし、また農耕や運搬という実需も(馬種は異なるが)手堅かった。 当時、「鶴見寺尾図」の域内で市場にかかわる人々が取り組むべき喫緊の課題は、「犬逐物」という古い産業形態をいかにして新しい成長産業へ転換させるかにあったが、まだ何とか儲かっている過去の産業を惜しむ守旧派を、新しい産業に開眼させるのは、多分、易しくはなかった(→【中世の商業・金融ネットワーク(5)改革派 vs 守旧派】)。人は往々にして、慣れたものを「良い」と錯覚する。そしてそれを打破するのは、天災、戦乱、芸術などの圧倒的な力~インド教でいうところのシヴァ神(仏教では大自在天)の破壊と創造の力~だ(→【中世の商業・金融ネットワーク(7)文化政策】)。 鎌倉時代の末期、世界情勢が混乱して(南宋の滅亡→【霜月騒動(8) 南宋の滅亡と中国人僧】)、グローバル貨幣価値が大きく揺らいだ(東アジア地域における宋銭の下落)。そして鎌倉地方で地震・台風などの天災が発生し(→【商業ギルド(8)天災と都市整備】)、さらには勢力争いによる合戦が人々の生活に大打撃を与えると(→【鶴見寺尾図の用水路(7)鶴見合戦】・【中先代の乱(5)鶴見合戦ふたたび】)、地域の活力は瞬時に崩壊しただろう(→【「えのきどはさしはりてみす」】)。 「空洞化を機に、産業を域内に繋ぎとめる努力をする、域内に産業を呼び込む。」~耳触りの良い、希望に満ちた物言いである。しかしそのために必要なのは、何よりも安全な環境である。戦乱がないことは勿論、水・食品・空気をはじめとする環境汚染のないことが肝要であり、その上にインフラや法整備があって初めて、都市として、市場として、魅力的な土地が出現する(→【市の立つ場所】・【市をめぐる誇大妄想(10) 国々に市あり】)。 鎌倉幕府は、天災や外圧に加えて、自らが引き起こした戦乱により鎌倉地方の安全を担保することに失敗した。その結果、都市は屍累々の環境汚染状態に陥り(新田義貞の鎌倉攻めの後、東勝寺で北条高時ら北条一族が自刃すると、寺は2日間燃え続けて八百数十の屍骸が残ったという。→【鶴見寺尾図の用水路(7)鶴見合戦】)、腐乱物質と腐臭に満ちた、山がちで地盤の軟弱な都市(→【万葉時代の「かまくら~可麻久良」】)に呆然と立ちつくす当時の人々が、都市・鎌倉に「世界の終り」を見たとしても不思議ではない。 今一度、私たちは鎌倉幕府の滅亡と現在の日本社会の類似について、想像力を巡らせてみるべきかもしれない。鎌倉時代、天災や合戦による屍の山は一定期間で自然分解したが、それでも伝染病や土壌汚染などの要因となったし、「怨霊」や「祟り」に関する精神的な忌避感も小さくなかったから、戦場跡地はたいてい忌地となった。 平安時代なら、「源氏物語」にあるように、怨霊の祟りで病気にもなれば命を失いもしたのだ。科学とや技術が幾分進んだ鎌倉時代では、そうした土地には寺社が進出して、死体の火葬や埋葬という「物理的な除染」や、加持・祈祷という「精神的な除染」がおこなわれた(→【「永福寺(ようふくじ)」と「正福寺(しょうふくじ)」】)。なのに「鉄腕アトム」級の技術を手にした今日の日本で、心神喪失などで自死する人が年間3万人以上になるという状態が、13年も続いている。 ところで、9月12日(月)の時事通信が、アメリカの経済誌「フォーブス(アジア版)」発表による今年の「卓越したアジア企業50社」に、中国企業が半数近くの23社を占める一方、日本企業は1社も入らなかった、と伝えている。日本企業が選外となるのは、2005年のリストアップ以来初のことで(昨年は任天堂と楽天の2社がランク・イン)、その一因として東日本大震災の影響を挙げていた。 2011年3月11日以降、福島第一原発の事故で放出された放射性物質(例えば、セシウム)の量は、広島の原爆168個分に相当するという。放射性セシウムの半減期は約30年、自然分解を待つなら、少なくとも100年以上の時間が必要である。 放射性物質による汚染は、放っておけば風化するという類のものではなく、物理的・科学的な除染を行わなない限り、土地の安全も食の安全も精神的な安心も決して担保されることはない。グローバルな視点から見れば、日本は今や「立派な」放射能汚染国だ。「低線量被曝の健康被害に関する研究は未整理」などと言い訳をしても、安全・安心(これは多分に精神的なものである)についての懸念を払しょくできなければ、国外から企業や人を誘致して国内経済を活性化することなど不可能である。 今、政治や技術は、こうした危機を乗り越える策を議論し、考案し、実行すべきだ。役人・政治家・利権団体は随分と長い間、民草の血税を食い物にするかのような予算配分と利権闘争に始終してきたが(2013年度から所得税を増税するというが、それよりも先に予算の無駄~特権と利権に胡坐をかくだけの役人・政治家と利権団体を税金で養うコスト~をなくすべきだろう。)、そのような猶予は、もうない(→【夢うつつ(8)殷と縄文と「鶴見寺尾図」】)。
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